その他の日本映画 1923年

 後に東宝の副社長を務めることになる森岩雄は、1922年に宣伝映画製作を目的にした中央映画社を設立していたが、関東大震災の影響を受け、外国映画輸入を行うようになった。森の周囲には岩崎昶などの若き映画青年が集っていたという。

 八千代生命が宣伝映画製作を目的として、兵庫県甲子園にあった甲陽キネマ撮影所を買収して東亜キネマが設立されている。また、6月には、監督の小笠原明峰が小笠原映画研究所(11月に小笠原プロダクションに改称)を開設し、11月には日本映画俳優学校も開設されている。