衰退が続くイタリア映画 月1〜2本の映画製作

 イタリア映画の衰退は続いていた。1923年の製作本数は20〜30本程度だったと言われるが、1924年はさらに落ち込んで15〜20本程度と言われている。

 経営危機に陥っていた映画製作会社のフェルトは、ローマのスタジオを貸しスタジオにし、トリノのスタジオをステファノ・ピッタルーガに売却している。1926年までフェルト=ピッタルーガの名前で映画製作を行うが、1927年にフェルトの名前は消えることになる。

 ステファノ・ピッタルーガは、元々は映画配給業者である。1920年には300の映画館を支配下に置き、配給・興行に確固たる地位を築いていた。フェルト社のトリノ・スタジオを買収して、1924年から製作に乗り出していく。

 かつてディーヴァと言われた女優フランチェスカベルティーニの作品を多く監督したジュゼッペ・デ・リグオーロが劇映画監督を引退している。以後リグオーロは1931年まで、短編ドキュメンタリーを監督していくことになる。