マキノ映画製作所と東亜キネマの合併

 時代劇に新しい波を起こしていたマキノ映画製作所だったが、経営的には借金で首が回らない状態だった。以前に帝国キネマとの対等合併の話も出たが、牧野省三以外が反対だったために実現しなかった。時代劇部を持たない松竹と提携の話が出たが、関東大震災で立ち消えになっていた。

 そんなマキノ映画は、1924年7月に東亜キネマに吸収合併されている。東亜キネマは1923年12月に設立された会社で、財力は豊かだったが製作陣が手薄で、販路も狭まれて苦闘していた。兵庫県西宮市甲陽に約100坪のグラス・スタジオを増築していたが、八千代生命の宣伝映画を数本製作しただけだった。東亜キネマの顧問だった作家の直木三十五牧野省三が知り合ったこともあり、合併の話が進んだ。一方で、合併の裏には総会屋の立石駒吉という人物の動きがあったとも言われる。立石は、マキノと東亜キネマを合併させた後、帝キネも合併させ、その後で日活か松竹へ合併させようと画策していたといわれている。

 新体制の東亜キネマは、200名以上の人員を擁した。等持院のマキノ撮影所を東亜キネマ時代劇部に、甲陽の撮影所は現代劇部とした。牧野省三は重役となり、両スタジオで監督した。東亜キネマは、マキノ系統の映画館150館と人気の高いマキノ時代劇とそのスタッフを手に入れたのだった。給料の最高は500円で、阪東妻三郎、高木新平、月形竜之介が取ったという。ちなみに、この頃のマキノ映画製作所→東亜キネマには後の大スター岡田時彦が所属していたが、まだ売れずに貧乏な生活を送っていたという。また、後にマキノ・プロダクションを代表する脚本家となる山上伊太郎が、東亜キネマのシナリオ研究生の試験をパスして宣伝部に所属していたが、脚本家として活躍するのは後の話である。

 順調に見えた新生東亜キネマだったが、帝国キネマによる阪東妻三郎らの引き抜きによって、撮影所は壊滅状態に陥った。東亜に残った脚本の寿々喜多呂九平や、監督の金森万象、省三の娘で役者のマキノ輝子を使って「毒刃」「国定忠治」(1924)が作られている。