映画評「グリード」

※ネタバレが含まれている場合があります

[製作国]アメリカ [原題]GREED [製作・配給]メトロ=ゴールドウィン・ピクチャーズ

[監督・脚本]エリッヒ・フォン・シュトロハイム [原作]フランク・ノリス [脚本]ジューン・メイシス [撮影]ベン・レイノルズ 、ウィリアム・H・ダニエルズ

[出演]ギブソン・ゴーランド、ザス・ピッツジーン・ハーショルト、チェスター・コンクリン、デール・フラー

[受賞]アメリカ国立フィルム登録簿登録(1991年)

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 歯科医のマックは、友人のマーカスの紹介でトリナと結婚する。しかし、宝くじが当たったトリナは金銭欲に取り付かれ、歯科医免許を持っていなかったマックは仕事ができなくなり、次第に2人の間には隙間風が吹き始める。

 オリジナルは9時間以上あったとされる伝説的な作品である。原作にはもっと多くの登場人物がサブ・ストーリーを形成しており、シュトロハイムはサブ・ストーリーも含めて撮影したが、その部分はごっそりとカットされている。また、展開が長文の字幕で処理されている部分もあり、細部がカットされているであろうことが想像できる。

 カットされているからと言って、「グリード」が見る価値のない作品ではない。また、最後はメトロ=ゴールドウィンの編集部員が編集したからと言って、今見ることができる「グリード」が残滓に過ぎないというわけでもない。今、私たちが見ることができる「グリード」は、それだけでも優れた作品であることに変わりはない。

 原作は、フランク・ノリスというアメリカの小説家の「マクティーグ」(主人公の名前)であるが、映画題「グリード(欲望)」の名がふさわしい内容である。それまで、金にそれほどの執着がなかったであろう女性トリナが、宝くじによって濡れ手に粟の金を手に入れることによって狂わされていくという展開。マックは、金そのものよりもトリナの心を奪った金に復讐するかのようだ。

 マックも、トリナも、マーカスも、最初はいい面を描かれる。マックは、気は優しくて力持ちという印象だし、トリナは清純で無垢な印象を受けた。マーカスは、気のいい友人役として数多くの映画に出てくるキャラクターだ。そんな彼らが、金によって狂っていく様は、誰もがそうであるように二面性のある人間の性を感じさせる。

 スケールは小さい。非常に小さな3人の人物を中心としたドラマだ。シュトロハイムのもう1つの代表作とされる「愚なる妻」(1922)も、実は小さな世界のドラマだが、伯爵(偽者だが)に外交官といった登場人物のキャラクターや、モンテカルロという歓楽地といった派手な要素もあった。対して、「グリード」は小さな小さなスケールの物語だ。

 演じる役者たちも地味だ。マックを演じるギブソン・ゴーランドも、トリナを演じるザス・ピッツも、マーカスを演じるジーン・ハーショルトも、ハンサムでも美人でもない。だが、それぞれが複雑さを感じさせる表情を見せる。特に、ザス・ピッツは決して美人ではないのだが、ときとして色気を感じさせ、ときとして強欲の塊となった醜悪な印象を与えてくれる。

 このような地味で小さな映画で、加えて人間を掘り下げることに終始した暗い物語を映画化しようという人物は、当時シュトロハイム以外にいただろうか?この点に関しては、シュトロハイムよりも、ユニヴァーサルをクビになっていたシュトロハイムに、映画を撮らせることにしたサミュエル・ゴールドウィンを褒めるべきかもしれない。

 「グリード」の不幸の一因は、製作の途中でメトロ社とゴールドウィン社が合併したことだった。ゴールドウィン社で製作されていた「グリード」は、アーヴィング・タルバーグの手に委ねられたのだった。結局、オリジナルは9時間だった作品は、最終的には2時間強にまでカットされた。もし、ゴールドウィンが最終決定を下す担当になったとしても、9時間そのままで上映が行われたという可能性は低いと思われるが、それでもフィルムを完全に処分されてしまうようなことはなかったかもしれない。

 9時間以上あったというオリジナルの「グリード」を見たことがある人たちは、ほんの少数に限られている。オリジナルを見た批評家やマスコミは傑作と評価したとも言われている。「グリード」は、天才シュトロハイムの才能が踏みにじられたとされ、商業主義が芸術を破壊した例としても挙げられる。しかし、それは一面的過ぎるようにも思える。

 9時間という上映時間は、尋常ではない。1日に1回しか興行することは出来ない。当時、映画の上映時間は、現在と同等の2時間程度に収まりつつあった。そんな中、9時間という上映時間が、おいそれと許されるものではなかったことを、シュトロハイムが気づかなかったとは思えない。だからかどうかはわからないが、シュトロハイムは自身でカットして6時間程度の作品とした。だが、6時間程度でも、やはり長い。

 シュトロハイムは映画を革新しようとしたのではないだろうか?2時間という短い時間では、小説のように人間の深い部分までは描き切ることはできない。映画が芸術となるためには、2時間という枠に捉われていてはダメなのだと。

 シュトロハイムの野心が痛いほど伝わってくる「グリード」の上映時間問題だが、映画が後に産業として発展していった理由を考えていくと、シュトロハイムの考えは間違っていると断言してもいいのではないだろうか?映画は約2時間という上映時間で、1日に何回も上映することで安価で短時間で楽しめるものとして人びとに受け入れられてきた。もし、6時間程度の作品が映画の主流となっていたら、映画の料金はもっと高くなり、人びとにこれほど受け入れられていたかどうかはわからない。

 もしかしたら、「グリード」のような大作と、他の作品の料金を区別して上映するという方法をとることができたかもしれない。それはそれで1つの手であるようにも思える。だが、映画は小説とは異なり、非常にコストがかかるメディアだ。狭く深くを狙って失敗したときのリスクは高すぎる。また、大量にダビングすることで、世界中で同じ作品を見ることができるという映画の特性を活かしているとは言えない。

 製作者であるタルバーグは、「グリード」に関しては悪役として描かれることが多いし、私たちは商売人よりも芸術家を尊重することの方が多い。しかし、産業として映画が成立していたからこそ、私たちは映画を見続けることができたのだ。映画は産業的な要求として2時間の枠に収まることが期待され、私たちは2時間という枠の中で収まるように工夫された映画を見ることで様々な喜びを得てきたことを忘れてならない。

 9時間という時間は、12回の日本のテレビ・ドラマの放映時間(CMを除いた時間)とほぼ同じであるというのは皮肉だ。シュトロハイムの野心は、テレビ・ドラマの時代になれば受け入れられていたかもしれない。テレビで、「グリード」のような暗い物語が受け入れられるかは別としてだが。

 とはいえ、オリジナルの「グリード」を見てみたいのも確かだ。登場人物たちはおそらく、オリジナルではもっとじっくりと暗い面を見せていったであろう。考えただけでもゾクゾクするような恐ろしさを感じさせたことだろう。

 「愚なる妻」(1922)でも、ゾクゾクするような恐ろしいシーンやショットを見せてくれたシュトロハイムだが、「グリード」ではあまり多くない。すぐに思いつくのは、職探しから帰ってきたマックを、休む間もなくトリナが別の会社に求職に行かせるシーンだ。トボトボと階段を降りるが足を止めるマックの後ろにはトリナの姿が。ふと足を止めるマックは、少しの間そこにたたずむ。この時の斜め下から撮影されたショットは不安定さを感じさせ、そのまま静止した間はまるで2人の間に細く残っていた信頼と糸が、少しずつ伸ばされて今にも切れかけていくのを見せ付けられているような緊張感に満ちている。オリジナルにはこうしたショットやシーンがもっともっとあったのではないかと思うと、残念でならない。私がタルバーグを責めるとしたら、カットしたことではなく、オリジナルのフィルムを破棄したことだ。

 「グリード」は、作品を巡る様々な出来事が先行してしまい、天才シュトロハイムや「芸術家VS映画会社」という構図を補強してしまっている作品である。今見ることができるフィルムだけでも素晴らしい作品であることも認める一方で、もちろんオリジナルの「グリード」も見たい。だが、映画は決して芸術家だけのものでもないということも忘れてはならないように思う。

 それでもやはり、シュトロハイムが芸術家たろうとしたことは間違いないという点もまた忘れてはならないとも思う。シュトロハイムは、2時間にカットされたフィルムを長い間、見ようとしなかったという。それはまさに、まるで気に入らない出来の作品を割ってしまう陶芸家のような、まさに芸術家の態度だ。

 シュトロハイムが「グリード」のカットされたバージョンを見るまでの間に、シュトロハイムは監督としての道を完全に閉ざされ、俳優として多くの映画に出演するようになっていた。果たして、「グリード」を監督していた頃のシュトロハイムはそんな未来を想像していたであろうか?

 1950年頃、シュトロハイムがやっとカットされた「グリード」を見たとき、シュトロハイムは涙を流したという。そんなカットされた「グリード」の冒頭には、次のような字幕が挿入されている。「この作品を母に捧げる」と。

 ちなみに、原作を読むと「グリード」が非常に原作に忠実であることがわかる。脇役の人物たちのドラマがほとんどがカットされている点は、実際にその部分が残っているバージョンを見ないことには、カットされたことがよかったのか悪かったのかはわからない。ただ、個人的に残して欲しかったと思う箇所があった。それは、マクティーグが歯科医を続けられなくなって、引越をするシーンだ。マクティーグとトリナは、引越をするにあたって、持ち物を競売にかける。しかし、最後に売れなかったものが1つだけある。それは、2人が結婚したときに撮影した写真だったのだ。このシーンは、原作を読んでいて強く心に残った。このシーンはぜひとも残して欲しかった。個人的な見解に過ぎないが。


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