映画評「逆流」

※ネタバレが含まれている場合があります

[製作国]日本 [製作]東亜キネマ

[監督]二川文太郎 [原作・脚本]寿々喜多呂九平 [撮影]橋本佐一呂

[出演]阪東妻三郎、片岡紅三郎、嵐冠三郎、マキノ輝子、清水れい子

 浪人の南條三樹三郎は、美しい女性の操に恋をしている。だが、操は家老の子である早水源三郎との結婚を控えている。姉の貞操が源三郎によって奪われたことを知った三樹三郎は、結婚式に押しかけて源三郎を非難するが、門前払いを食ってしまう。

 当時、映画に新風を吹き込んでいたマキノ映画は、この頃東亜映画に合併されていた。だが、マキノ映画で活躍していたスタッフ・キャストの多くは、そのまま活躍していた。

 「逆流」は、二川文太郎、寿々喜多呂九平、阪東妻三郎という、エース級のスタッフ・キャストが結集した作品である。残念ながら消失してしまっている部分も多いが、当時のマキノ映画のパワーを感じさせてくれるに十分な作品である。

 寿々喜多呂九平の脚本の特徴として、それまでの時代劇が英雄豪傑を主人公にしたのに対し、アウトローを主人公にした点が挙げられる。だが、この説明は少し不十分に感じられる。寿々喜多の特徴の1つに、アウトローを主人公にしつつ、決してアウトローを称えるだけの作品ではなく、主人公に対する批判的な視線を忘れていないという点がある。

 「逆流」の主人公である三樹三郎は、源三郎への復讐をする。復讐の理由は、姉の貞操を奪ったことだ。だが、それだけで源三郎と妻である操の命を奪おうとするのは、さすがにやりすぎのように感じられる。三樹三郎の行動の中には、好きな操に振られたという自分勝手な理由が見え隠れするし、うまくいかない人生に対するむしゃくしゃする気持ちも見え隠れする。

 三樹三郎が復讐を達したときに、画面は決して斬られた源三郎を映し出しはしない。その代わり、映し出すのは血がべっとりとついた刀である。粘着的な血は、三樹三郎の復讐の澱みを感じさせる。見事な演出だ。

 二川文太郎の演出は、他でも冴えを見せる。操と源三郎ができていることを知った三樹三郎が、嫉妬と絶望に狂わんばかりの表情の浮かべる後ろに、操と源三郎が仲睦まじく歩いていくを姿を見せるショットの、画面構成の素晴らしさ。結婚式のシーンにおいては、白無垢姿の操がチラチラと愛する源三郎を見る様子が、何ともいえないいやらしさを感じさせる(偶然だが、白無垢に虫が止まる。まるで操が決して白無垢ではないことを主張しているようだ)。

 二川演出が最も冴えるのは、海岸での決闘シーンだ。遠景・近景を織り交ぜ、横だけではなく斜め下といった構図も取り入れ、上述した血がべっとりとついた刀へとつながる。このシーンは、個人的には「雄呂血」(1925)の大げさな大乱闘よりも、リアリティがあって好きだ。

 阪東妻三郎は、幼さすら漂わせる表情で、見事に世間知らずでわがままな面を持つ青年を演じている。

 「逆流」は、寿々喜多呂九平の特徴がしっかりと現れ、二川文太郎の演出も見事で、阪東妻三郎の演技も素晴らしい。「雄呂血」(1925)は確かに見事な映画であるし、3人のコンビの集大成でもあるだろう。だが、「雄呂血」にも見られる3人の素晴らしさは、「逆流」でも完成している。

 自虐的で、リアリスティック。熱くありながら冷徹。見事なアクションの興奮とむなしさ。この後の日本映画にはない魅力が、この頃の二川、寿々喜多、阪東映画にはある。