パラマウントの分割としたたかなズーカー

 1924年、連邦通商委員会はパラマウントに対して訴訟を起こしていた。訴訟内容は配給会社パラマウントが製作と興行の両面の独占化を図っているというもので、独立興行者によって構成されている映画館主協会もパラマウント弾劾運動を行っていた。1年間の裁判の後、パラマウントは敗訴した。その結果、パラマウントのボスであるアドルフ・ズーカーは、製作・配給会社パラマウント=フェイマス=ラスキー・コーポレーションと、興行会社パブリックス・シアターズ・コーポレーションに分離することとなった。だが、実質的にはズーカーは事業の拡大と強化を獲得したのだった。

 ズーカーは、パブリックスの社長と副社長をサム・カッツとバーニー・バラバンに依頼した。2人はシカゴ周辺に600館の劇場を経営するファースト・ナショナル傘下の大興行者だった。ズーカーは敗訴しながらも、対抗勢力の一部を入手したのだった。

 ちなみにこの年、老舗のヴァイタグラフが1923年設立のワーナー・ブラザースに身売りしており、1つの時代が終わりを告げた。当時ヴァイタグラフ社は破産寸前の状態であり、老舗を買収したとはいえワーナーはまだまだ三流会社の地位にとどまっており、経営は思わしくなかった。だが、ヴァイタグラフはサウンドの分野で研究を進めており、ワーナーがトーキーの先陣を切ることの布石の1つとなる。