セシル・B・デミルの野心 製作、配給会社の設立

 1914年の「スコウマン」以来、盟友のジェシー・L・ラスキーの製作会社ラスキー・フィーチャー・プレイ(アドルフ・ズーカーのフェイマス・プレイヤーズと合併した後はフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーもしくはパラマウント)に所属して映画を作っていたセシル・B・デミルは、1925年からデミル・ピクチャーズを設立している。

 パラマウントからは1本の製作費29万ドル、週給6,500ドルを前払いの条件を提示されたが、デミルは不満だったという。また、ユナイテッド・アーティスツから1本30万ドル、ファースト・ナショナルから1本100万ドルで映画製作を行って欲しいとの話もあったという。

 当時のパラマウントには人材が集まり、巨匠のデミルが邪魔になってきていたという事情もあったと言われる。また、パラマウントがD・W・グリフィスと契約したことも、デミルの気に入らなかったという。

 デミルは1924年に死去したトマス・H・インスの撮影所を買収した。さらに、独立映画製作者たちによる配給組織であるプロデューサーズ・ディストリビューティング・コーポレーション(PDC)の設立にも参加し、PDCを通して映画を配給した。