ソ連 映画の重要性を認識していたレーニン

 1924年に死去したレーニンは、早くから映画に大きな興味を寄せていた。革命後には「すべての芸術のなかで、私たちにとって最も大切なものは映画である」とまで語っていたという。レーニンは啓蒙の手段として映画の重要性を認識していた一方で、テーマや内容だけではなく、表現や形式の美的感性まで視野に入れていたと言われている。

 1925年、レーニンの戦友であるルナチャルスキー教育人民委員(文相)によって、「芸術文学における党の政策について」が発表されている。これは、レーニンの思想が成文化されたものであると言われている。