ドイツ パルファメト協定の締結

 1925年になると、ドイツは第一次大戦の敗戦の混乱から脱出し、新しい時代に入っていた。

 映画界においても大きな動きがあった。ドイツ最大の映画会社であるウーファが、多額の負債からの脱却を図り、アメリカのMGMおよびパラマウントとパルファメト協定を結び、1,700万ドルにのぼる資金を借り入れたのだ(調印は1926年1月)。

 協定の内容は、3社でパルファメト社(パラマウント、ウーファ、メトロの略)を設立し、年間60本の作品を配給することし、配給される作品20本ずつを3社が製作を行うというものだった。このためウーファ社は、20本のノルマをこなすために、安い製作費で映画を製作するようになった。また、ウーファはユニヴァーサルとも契約を結んだが、この契約はパルファメトにより1年後に買い取られている。

 当時のウーファの従業員は6千人で、ドイツ最大の撮影所を持ち、数々の大劇場を傘下に収めていた。社長はドイツ銀行のフォン・シュタウス、副社長は国立銀行ヤコブ・ゴールドシュミットだった。

 パルファメト協定により、ウーファ系の劇場は年間40本のアメリカ映画(ドイツ映画は20本)を上映しなければならなくなった。さらに、E・A・デュポン、ルプ・ピック、パウル・レニF・W・ムルナウといった監督、エミール・ヤニングス、コンラート・ファイト、ポーラ・ネグリらのスターをアメリカへ送ることとなる。

 パルファメト協定は、何よりもドイツ映画界の誇る人材の流出を招き、ナチス・ドイツの台頭も重なり、世界を席巻していたドイツ映画を国際舞台から転落させるきっかけとなるものだった。