イタリア 新「クォ・ヴァディス」の大失敗

 1912年に、イタリア映画の存在を世界に高らかに宣言した作品があった。それは、史劇「クォ・ヴァディス」(1912)である。以後、イタリア映画は史劇、スペクタクル劇を中心に世界を席巻する。しかし、この頃にはアメリカ映画を中心とする外国映画に完全に押されていた。

 そんなイタリアの映画製作会社UCIは、かつての栄光をもう一度とばかりに、「クォ・ヴァディス」の再映画化を企画した。1921年に発表されたこの作品は、1925年になってやっと公開された。

 海外市場を考えて、皇帝ネロ役にはドイツの名優エミール・ヤニングスが起用された。そして、総監修にはイタリア映画の父とでも言うべきアルトゥーロ・アンブロジオ、監督は当時の代表的作家で、映画界にも深く関わっていたガブリエーレ・ダヌンツィオの息子のガブリエリーノ、融資を仰ぐためにスーパーヴァイザーとしてドイツからゲオルグ・ヤコビ、この三人が製作の指揮にあたった。しかし、三頭演出となり、現場は収拾がつかなくなったという。さらには、撮影中にエキストラの女性が大やけどをしたり、別のエキストラがライオンに食い殺されたりとトラブルが続いたという。

 こうして完成された作品だったが失敗作と言われ、興行成績も惨憺たるものだった。製作したUCIのスタジオは閉鎖され、破産に追い込まれた。

 新「クォ・ヴァディス」の大失敗は、イタリア映画の衰退を決定付ける出来事である。1920年には220本ほど製作されていたイタリア映画だが、この頃には年に15本程度にまで落ち込んでいた。

 衰退したイタリア映画界だったが、時のファシスト政権が関心を示していた。1925年には、映画による教育・宣伝を目的とした映画公社LUCE(ルーチェ、教育映画連盟)が発足されている。