関東大震災とアメリカ映画の影響 1925年

 日本映画は関東大震災を機に変わったと言われる。関東大震災による破壊は、従来の旧習を廃して、新しい文化を創造する機運をもたらした。この機運に乗って、大震災後に、日本映画は一大飛躍を遂げたのである。飯島正は、1920年代に日本映画は他の国が30年かけた無声映画の芸術展開を一気に成就したと述べている。

 1920年代の日本映画は、現代の文化をさまざまなジャンルの映画のなかに展開させたと言われるが、アメリカ映画の影響が非常に大きい。例えば、蒲田調は、アメリカ・ユニヴァーサル社のブルー・バード映画に影響を受けていると言われる。また、文化コマーシャリズムを風刺した松竹蒲田の島津保次郎監督「文化病」(1925)は、アメリカ映画「文明病」にヒントを得たと言われている。

 他にも島津が監督した「夕の鐘」(1925)は、チャンバラのない時代劇で評判がよかった作品だが、吉村公三郎は、「講座日本映画」の中で、無字幕映画だったジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督の「救ひを求むる人々」(1925)の影響を受けていると指摘している。

 さらに演技の面においても、西欧演劇の演技を忠実に取り入れてから、日本の映画に還元しようとした。それは、喜劇の分野にもみられたという。

 日活京都が製作した鈴木謙作監督の結婚生活喜劇「弱き者男よ」(1925)は、アメリカ映画「女房征服」(1922)の翻案であり、エルンスト・ルビッチの「結婚哲学」(1924)の影響も受けているという。そして、この流れは昭和初期の新婚生活喜劇ブームへとつながっていく。

 アメリカの短編スラップスティックコメディも日本映画に影響を与えているという。松竹は新人監督に短編喜劇を作らせており、斎藤寅次郎島津保次郎小津安二郎成瀬巳喜男らがコメディを監督し、渡辺篤斎藤達雄、坂本武、吉谷久雄らといった喜劇俳優を出現させた。これらは、昭和初期の蒲田喜劇の黄金時代へとつながり、松竹の小市民映画として成熟していく。

 さらに、アメリカのダグラス・フェアバンクスリチャード・バーセルメス、ジョージ・バンクロフトといったヒーロー像の影響は、日本の伝統的なヒーロー像にアメリカのヒーロー像(現代的な機敏さ、女性への優しさ)を加味するという形で結実していく。

無声映画の完成 〜講座日本映画 (2)

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