松竹 島津保次郎の活躍 1925年

 1924年に帝国キネマによる引き抜きにあい、1925年には日活が梅村蓉子を松竹から引き抜いた。それに対して松竹は、鈴木伝明を逆に日活から引き抜いた。引き抜き合戦により、松竹蒲田撮影所長だった城戸四郎はスター・システムの弊害を痛感し、脚本家と監督を充実させ、社内に俳優研究所を設けて新人育成を行うようになったという。

 松竹蒲田撮影所で、蒲田調と呼ばれた小市民映画の代表的監督だった島津保次郎は、「村の先生」(1925)を監督している。因習に固まった村で、善意から他人を次々に不幸にしていく人物をコミカルに描いた写実主義作品である。島津監督の「お父さん」(1923)、「日曜日」(1924)の試みが実を結んだ作品で、前期蒲田調の決定打とも言われる。批評家に絶賛された。

 ちなみに、後に松竹の監督して活躍する山田洋次が、城戸に誰を一番評価するかと聞くと、返事は島津だったという。当時高学歴の者も多かった松竹蒲田において、中学しか出ていなかったことをコンプレックスに思っていた島津の才能に着目したのは、城戸だった。島津は、日常事を写実的に描きながら人間の真実を捉えるという城戸の考えを実践し、城戸と島津のコンビが松竹蒲田の基礎を築いたと言われる。

 また、島津らと共に松竹を支えていくことになる五所平之助は、それまで脚本を書いていたが、1925年に監督に昇進している。デビュー作は自分の脚本の「南島の春」(1925)だが、島津監督でクレジットされているという。しかし、続けて監督した作品が不評だった。

 他にも、池田義信監督「或る女の話」(1925)、牛原虚彦監督「恋の選手」(1925)などが作られたが、日活他の時代劇の興隆により、1925年の松竹は沈滞の年だったといわれる。松竹はアメリカ・MGM社の1924、25年の作品42本買い入れて、急場をしのいだ。