その他の日本映画 1925年

 「キネマ旬報」を発行していた田中三郎は、映画雑誌「映画往来」を創刊している。「キネマ旬報」の映画広告に対する批判から、純粋な映画評論を目指して創刊された。田中は2誌に携わることになり、多忙を極めたという。

 貿易商の皆川芳造の手により、アメリカで開発されたトーキー映画が輸入された。7月1日から新橋演舞場で公開されたが、興行的に成功せずに撤退した。

 文部省は東京シネマ商会を使って、多くの教育映画を製作していた。1925年には、「伝染病の病原体」(1925)が製作されている。