映画評「西部成金(キートン西部成金)」

※ネタバレが含まれている場合があります

[製作国]アメリカ  [原題]GO WEST  [製作]バスター・キートン・プロダクションズ  [配給]メトロ・ゴールドウィンディストリビューション・コーポレーション

[監督・脚本]バスター・キートン  [撮影]エルジンレスリー、バート・ヘインズ  [美術]フレッド・ガブリー

[出演]バスター・キートン、キャサリン・メイヤーズ、ハワード・トルースデール、レイ・トンプソン

 キートン演じる友達のいない流浪の青年は、西部へとやって来る。西部でカウボーイとなったキートンは、1頭の牝牛に愛着が沸いてくる。しかし、牝牛は他の千頭の牛と共に屠殺場へ送られる日がやってくる。そのことが嫌なキートンは、牝牛が乗せられた汽車にくっついていく。

 1920年代の中頃は、キートンの絶頂期とも言える時期で、代表的な長篇が多く作られている。その中で、「西部成金」は比較的知名度の低い作品である。それはなぜかというと、大人しい作品だからではないかという気がする。

 キートン映画の最大の魅力は、キートンのアクロバティックな動きにある。だが、この作品ではその動きは影を潜めている。最後の最後で千頭の牛に追いかけられたキートンが、警官たちと一緒に走りに走って逃げるというシーンまで、見るものはキートンの爽快な体技を見ることはできない。牛の気を引くために、仮装パーティ用の真っ赤な悪魔の格好をキートンがしている(カラーでも見てみたい)というオマケつきの、この疾走シーンはスカっとするものがある。

 大人しい作品ではあるが、細かいギャグはおもしろい。特にキートンが偶然拾った小さな銃(人を殺すことができないくらい小さな銃)を使ったギャグが個人的には好きだ。ホルスターにしまうも、銃が小さすぎて、いざ銃を取り出そうとしても手を奥まで突っ込んで探さなければならない。すぐに取り出せるようにするために、キートンは紐を拳銃とベルトにくっつけるという工夫をする。

 加えて、千頭の牛がロサンゼルスの町に流れ出すシーンのスペクタクルは見るに値する。数が多いというのはそれだけで圧巻である。当時の作品で、これだけの数のスペクタクルを見せてくれる作品は、見たことがない。牛はよく調教されており、それだけでも感心する。だが、キートンはこのシーンの演出に満足しておらず、そのためにこの作品自体も気に入っていないらしい。キートンはもっと面白いシーンを生み出そうと考えていたのかもしれないが、今見ることができるシーンだけでも十分印象的だ。

 動物の数によるスペクタクルは、この後ヒッチコックの「鳥」(1963)などでも見られるものである。特に、街に大量の動物がやって来るという設定は、文明と自然の対立を描くものとして、ホラー映画やパニック映画など形を変えて、この後も繰り返し映画に登場する。大量ではないが、巨大な恐竜が街を襲う「ロスト・ワールド」(1925)は「西部成金」と同じ年に公開されており、同じ文明と自然の対立を描いてみせる。キートンは意識的にか無意識的にか、この後も繰り返し映画に登場するシチュエーションを見事にコメディとして昇華させている。

 キートンはコメディとして昇華させることができたのは、非人間的な面を持つキャラクターによる部分もあるのかもしれない。キートンは、どんな困難でも、あのストーン・フェイスでさらりとかわしてきた。それは非人間的である。千頭の牛が街に流れ出すというシチュエーションが、街の人々にとっては腰も抜かさんばかりの出来事であるのに対し、キートン自身は落ち着いている。もし、キートンも驚き、怖がっていたら映画はコメディではなく、ホラーやパニック映画になってしまう。

 キートンの非人間的な側面は、牝牛のブラウン・アイズに異常なまでの愛着を見せることにも説得力を持たせる。友達がいないという設定のキートンだが、同じ設定でもチャールズ・チャップリンが最終的には女性への愛に向かうのに対し、キートンは牝牛への愛につながる。キートンは街に流れ出した千頭の牛を、汽車の中に戻すことに成功して、雇い主からブラウン・アイズを引き取る許可をもらう。だが、忘れてはならない。千頭の牛を街に流れ出したのは、キートンがブラウン・アイズを助け出そうとしたためであるということを。キートンは決して雇い主のことを考えてはいない。キートンは牛のことを考えている。

 キートンの牝牛であるブラウン・アイズへの愛。それは、最後のオチにも現れているが、ここでは書かない方がいいだろう。男女のメロドラマのステレオ・タイプをうっちゃる見事なオチだ。

 「西部成金」は、キートンの最大の魅力であるアクロバティックな動きがあまり見られないがために、知名度が低い作品だ。だが、練られたギャグに、大量の牛を使ったスペクタクル、そして牝牛への愛など、見所に溢れた作品だ。