映画評「夜の女」

※ネタバレが含まれている場合があります

[製作国]アメリカ  [原題]LADY OF THE NIGHT  [製作・配給]メトロ=ゴールドウィン・ピクチャーズ・コーポレーション

[監督]モンタ・ベル  [原作]アディラ・ロジャース・セントジョン  [脚本]アリス・D・G・ミラー  [撮影]アンドレ・バーレティアー  [編集
ラルフ・ドーソン  [美術]セドリック・ギボンズ

[出演]ノーマ・シアラー、マルコム・マグレガー、デール・フラー、ジョージ・K・アーサー、フレッド・エスメルトン

 犯罪者を父に持つモリーは、厚い化粧とケバケバしい衣装でチャンキーと共に酒場に出入りしている。モリーは酒場で出会ったデイヴィッドに恋するようになり、デイヴィッドの発明が売れたのを喜ぶ。だが、デイヴィッドは発明を買ってくれた判事の美しい娘フローレンスと出会い、2人は恋に落ちる。

 当時スターだったシアラーが、モリーとフローレンスという正反対の二役を演じた作品。それだけで興行的な価値があったと思われる。

 オープニングが素晴らしい。アパートの部屋の前に座って何かを待っている警官。部屋の中には、ベッドに横になっている生まれたばかりの赤ん坊と、ベッドの横でうなだれるように座る父親。「モリーという名前にするわ」という母親に、父親は静かに頷く。赤ん坊が父親の方に手を伸ばすが、父親はさっと手を引く。父親の手につながれていた手錠に触ったのだ。

 重苦しい雰囲気は、静かであればあるほどのしかかる。警官の横を通る住人もアクセントとなり、寂寥感を高める。セリフ字幕は1つだけで、彼らの背負っている状況を理解させながらも、雰囲気を作ることに成功しているのだ。

 「これは傑作かもしれない」と思ったのだが、演出が冴え渡っていたのはオープニングだけだったのが残念。この後もモンタ・ベルの演出は丹念だが、かなりストレートに進んでいく。しかも、素晴らしいオープニングに登場するのはモリーの両親で、モリーの父を裁いた判事がフローレンスの父親なのだが、この設定が特に後半に絡んで来ないので、何だか素晴らしいシーンのためだけに存在しているかのように感じられた。

 モリー、デイヴィッド、フローレンス、チャンキーの男2人と女2人の計4人の恋愛模様は、自己犠牲の連鎖につながり、最後は大団円を迎えるという筋書きだ。2役のシアラーの熱演があるにもかかわらず、どこか上滑りしているようにも感じるのは、モテモテのデイヴィッドがあまりにも無自覚だからだろうか。演じるマグレガーの顔が少し間の抜けたような印象のため、なぜデイヴィッドに夢中になるかが分からなくなってくるのだ。世の中そういうこともあるのかもしれないが、少なくとも「夜の女」の中の恋愛模様は心に迫ってこなかった。