映画評「POIL DE CAROTTE」

※ネタバレが含まれている場合があります

[製作国]フランス  [製作]フィルムス・A・ルグラン、マジェスティック・フィルムス  [配給]PHOCEA FILM

[監督・脚本]ジュリアン・デュヴィヴィエ  [原作]ジュール・レナール  [脚本]ジャック・フェデー

[出演]アンリ・クラウス、シャルロット・バルビエ=クラウス、アンドレ・ウーゼ

 「にんじん」と家族に呼ばれる少年フランソワは、母親にいじめられ、父親には無視され、兄と姉には馬鹿にされて辛い日常を送っていた。女中のアネットや幼い少女のマチルデといった数人だけが優しくしてくれる。だが、段々と生きる事が辛くなってきたフランソワは自殺を考えるようになる。監督のジュリアン・デュヴィヴィエが、1932年にトーキーで再映画化することになるお気に入りの題材。

 トーキー版とのストーリー上の大きな違いは、兄と妖婦との関係が描かれていること、このために父親が市長にはなれない点だ。息子(兄)に絶望した父親には、もはやフランソワしか精神的なつながりを持てる家族はおらず、2人の関係が強くなっている。

 それ以外はトーキー版と非常に良く似ている。技術的な面では、ニワトリ小屋に鍵をかけに行くシーンでは、ともに二重写しが使用されている。ラストの自殺を試みるフランソワと、フランソワを探す父親のカットバックのサスペンスも共通している。

 少し違うのは、母親の造形だ。意地悪な点は共通しているが、サイレント版の方はヒゲが生えているようにも見え、かなりグロテスクに描かれている。よりリアルさを要求されるトーキーではなく、言葉がないため現実とは別世界の感覚が強いサイレントならではの描写といえる。

 デュヴィヴィエは、1930年代のトーキー初期のフランス映画を代表する監督であるが、この作品を見ると、サイレント映画の監督としての腕前も十二分に持っていたことが分かる。「にんじん」と呼ばれた1人の少年の悲しくもみずみずしい物語の力強さもあるが、それを映画に落としこむデュヴィヴィエの腕の確かさを感じる。