「ラ・ボエーム」 リリアン・ギッシュの女優魂

 かつてD・W・グリフィス監督とのコンビで映画史に残る作品を残したリリアン・ギッシュは、見事な演技を見せ続けた。

 ギッシュは、MGMと2年で6本の作品に出演する契約を行った。この頃になると映画は分業制となっていたが、グリフィスと別れた後のギッシュは、かつてのグリフィスの行っていたのと同じ立場として活躍した。すなわち、監督を指名し、脚本を承認し、前もって通し稽古を行ったりといったことである。

 そんなギッシュが出演したのが、歌劇として有名なアンリ・ミュルジエの小説を題材としたメロドラマ「ラ・ボエーム」(1926)である。19世紀のパリ。詩人ロドルフら貧しい芸術家たちが集う宿屋には、ミミという可憐なお針子の娘が住んでいた。ミミが部屋代を払えないことを知ったロドルフは、ミミを引き取ってやることにし・・・という内容の作品だ。

 「ラ・ボエーム」の監督はキング・ヴィダーが担当した。MGMのプロデューサーだったアーヴィング・タルバーグに好きな監督を指名して良いと言われたギッシュは、試写で「ビッグ・パレード」(1925)を見て、監督のヴィダーを指名したのだった。キング・ヴィダーはギッシュの演技に感心したと言われている。ギッシュは、乾ききった唇でつぶやくシーンのために、3日間液体を口にせず綿を口に入れて眠り唾液を取ったのだった。

 リリアンは、撮影にヘンドリック・サートフを指名した。サートフは独自のソフト・フォーカス・レンズを発明し、それに「リリアン・ギッシュ・レンズ」と名づけていたというエピソードを持った人物である。フィルムは高感度のパンクロフィルムをリリアンが提案したが、当時のMGMでは誰も使い道を知らなかった。タルバーグは渋々パンクロフィルムの扱い方を勉強させることにしたが、その効果を見て、現像設備をすべてパンクロフィルム用にしたという。また、ミニチュア・セットを作って、シーンの設計やライティング・プランを立てやすいようにも提案したという。

 衣装は、当時のトップ・デザイナーのエルテがデザインしたが、新品のように見せたため、古着のように見えるように、リリアンは提案した。その結果、エルテは降板してしまったという。また、屋根裏のセットも大きく立派すぎたため、貧しさが出るように変更させたという。また、グリフィス流の通しのテストが行われなかったため、リリアンだけが一人でテストをした。

 ギッシュは、かつてグリフィスの作品ではあり得ないラブ・シーンを拒否した。しかし、MGMがギルバートを「大いなる恋人」と売り出していたために、結局は拒否できなかったという。ちなみに、ギルバートはリリアンに恋し、映画撮影後に求婚したという。ギルバートは、「肉体と悪魔」(1926)で共演したガルボにも求婚したといわれ、公私ともに情熱的な男性だったようである。

 一方で、1920年代の道徳的自由さの中で、ギッシュの演技は古臭くみえるようになっていた。そのため、新しいスターであるジョン・ギルバートとの演技にギャップが生じ、プロデューサーのアーヴィング・サルバーグの命令で、2人のギャップを埋めるための撮り直しが行われたという。

 ちなみに、撮影中にリリアンを誘拐するという脅迫の電話があったが、MGM撮影所のボスであるルイス・B・メイヤーが探偵を雇い見張ってくれたというエピソードが残っている。

 「ラ・ボエーム」は、批評的にも興行的にも成功し、リリアン・ギッシュの名声はさらに高まった。