イタリア 壊滅的な映画製作と盛り上げる映画研究

 イタリアの映画製作は壊滅的な状況だった。この頃には1年間で12本未満の作品しか作られなくなっていたという。

 映画製作の衰退の一方で、映画研究や映画批評は盛んになっていた。フィレンツェの「ソラリア」誌は映画特集を組み、エンツォ・フェルリエーリは自分が責任者の「イル・コンヴェーニョ」誌を拠点に、初のシネ・クラブを組織した。

 イタリアの映画研究・批評の基本的な考え方は、当時のイタリアに大きな影響を与えた哲学者クローチェの美学と関連して表現手段を考えようという態度だったという。後にイタリアの映画批評・研究が極めて観念的になるのも、クローチェ哲学の影響を受けているといわれる。また、一方で批評・研究が観念的となったのは、ファシズム当局の検閲を避ける目的もあったとも言われる。