映画評「帽子箱を持った少女」

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帽子箱を持った少女 [DVD]

[製作国]ソ連  [原題]DEVUSHKA S KOROBKOY  [英語題]THE GIRL WITH THE HAT BOX

[監督]ボリス・バルネット  [脚本]ワレンチン・トゥルキン、ワジム・シェルシェネビチ  [撮影]ボリス・フランツィッソン、ボリス・フィリシン  [美術]セルゲイ・コズロフスキー

[出演]アンナ・ステン、イワン・コワル・サムポルスキー、パーヴェル・ポーリ、セラフィマ・ビルマ

 モスクワ近くの田舎で、帽子職人として祖父と共に生活するナターシャ。モスクワに帽子を納品に行く途中の列車の中で、失礼な青年イリヤと出会う。だが、イリヤがモスクワで住むところを見つけられないのを知ったナターシャは、金持ちの帽子屋に名義だけ貸していた部屋にイリヤを住まわせために、結婚することを思いつく。

 レフ・クレショフ工房出身のボリス・バルネットの単独監督作としても、後にハリウッドに招かれるが失敗に終わるアンナ・ステンが最も魅力的な作品としても知られる。また、当時のソ連映画といえば、セルゲイ・エイゼンシュテインに代表されるプロパガンダ色が強い作品が想起されるが、非常に軽いコメディとしても貴重な作品である。

 バルネットの才気が爆発している。極端なクロース・アップや素早いカッティングといった、当時のソ連映画の特色を生かしながら、溌剌としたコメディに奉仕している。時に、当時のソ連映画人が惚れ込んでいたスラップスティック・コメディのようなシーンを折り込みながらも、時にしっとりとした情感をもたらす。同じアングルからのショットを、人物のピントをずらしてつなげるといった実験的な表現も見せる一方で、全体的には非常にストレートな語り口で見る者を魅了する。

 バルネットだけではない。「帽子箱を持った少女」が最高作と言われるアンナ・ステンは、少女と女性の中間の役柄を、時にかわいらしく、時に気丈に演じてみせる。爆発しているかのような髪型もいい。クライマックスで針を刺してしまったステンの指を舐めてあげるイリヤ。それを見たステンが、自ら唇に針を刺すシーンの可愛らしさといったらない。

 宝くじ付き国債国債の販売促進目的で、大蔵省から資金が出て製作されている)、住宅居住の実態を調べに来る役人、簡易な結婚・離婚手続きなど、当時のソ連の様子の一端を見ることができるのも、「帽子箱を持った少女」の特徴の1つだろう。

 「帽子箱を持った少女」は、ソ連映画ならではの魅力を持ちながら、普遍的なコメディとしての魅力も持った作品だ。もっと一言で言うならば、魅力的な作品である。


帽子箱を持った少女 [DVD]

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映画評「用心を怠るな」

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[製作国]ソ連  [原題]Budem zorki  [英語題]Let's Be Perceptive

[製作]ミジラブポム=ルーシ  [監督]ニコライ・ホダターエフ

 イギリスがソ連に対して禁輸措置を取った。ソ連は工業化を進めて対抗しなければならない。労働者たちよ、国債を買おう!という内容のプロパガンダ・アニメーション映画。

 ストーリーというほどのものはないが、実写とアニメを組み合わせた技術的な側面の方が印象に残る。素早いカッティングにより、ソ連の工業の目覚しい発展と、国債の役割を説明するテクニックは、さすがモンタージュ理論を生み出した国という印象を受けた。


ロシア革命アニメーション コンプリートDVD-BOX

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映画評「ナポレオン」

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ナポレオン [DVD]

[製作国]フランス  [原題]NAPOLEON

[監督・脚本]アベル・ガンス

[出演]アルベール・デュードネ、ジナ・マネス、アレクサンドル・クービッキー、シュザンヌ・ビアンケッティ、アントナン・アルトー、ピエール・バチェフ

 フランスの皇帝となるナポレオン・ボナパルトの半生を描く。兵学校時代の少年期から、軍人としてトゥーロンを攻略する様子、イタリア方面の総司令官となり進軍するまでを描く。

 伝説的な作品である。3台のカメラで撮影された映像を、3面のスクリーンで上映するトリプル・エクランと呼ばれる手法。ナポレオンの生涯を描こうとするも(6部作を構想していたという)、資金面の問題で頓挫してしまったこと。ケビン・ブラウンローにより復元され、フランシス・フォード・コッポラによって、1981年から世界で上映会が開かれたこと。こうした様々な面で伝説的な作品と言える。

 最初に、コッポラによる再公開についてざっと書いておこう。ガンスが製作したフィルムは、6時間が完全版だったらしい。当時のサイレントでよくあるように、完全版は失われてしまった。散在してしまったフィルムを映画研究家のケビン・ブラウンローが復元した。復元された「ナポレオン」を見たコッポラは、父であるカーマイン・コッポラにスコアを依頼し、フル・オーケストラの音楽をつけて世界で公開したのだった。日本でも1983年に公開されている。コッポラと黒澤明が共同提供で、資生堂が主催という形だった。

 私が見たのは、このコッポラによって再公開されたバージョンである。だがブラウンローは、その後もフィルムを集め、2000年に5時間を超えるバージョンが作られたという。

 ナポレオンといえば、フランスを代表する歴史上の人物である。業績の是非はともかく、皇帝にまで上り詰めた立身出世ぶり、軍人としての才能、ヨーロッパを支配しようとした野心など、英雄と語られる一方で独裁者との見方もあるが、語るべきことはあまりにも多い。

 そんなフランスを代表する人物を、当時フランスを代表する監督の1人だったアベル・ガンスが映画化を試みたのは当然の成り行きだったのかもしれない。当時ガンスは自身のプロダクションで映画製作を行っていた。サイレント期の映画製作はトーキーよりもコストが少なく済んだこともあり、「ナポレオン」も製作が可能だったといえるだろう。

 ガンスは、3つのカメラで撮影し、3台の映写機で上映するというトリプル・エクランと呼ばれた方法で「ナポレオン」を作り上げた。後のシネラマを先取りした手法だったとも言えるが、ガンスの目的は単に画面を大きくして迫力を増そうとしたわけではない。3つの画面に違う映像を流し、その全体のイメージを観客に知覚してもらおうとも考えていたのだ。だが、この試みは多少無謀だったかもしれない。それは、映写できる会場が限定されてしまうためだ。映画が製作に膨大な金をかけられるのは、1つの作品を多くの観客に見てもらうことができるという特性のためだ。トリプル・エクランに対応できる映画館は多くなかった。後にトーキー初期にも同じ問題が起こるが、トーキー自体がスタンダードとなったために、解決されたのだ。

 私が見たバージョンでは、トリプル・エクランは映画後半の20分のみに限定されていた。完全版は、冒頭からトリプル・エクラン方式だったらしい。20分のみの感想を書くと、トリプル・エクランは大画面で映写されなければ体感できないものだ。テレビの画面では、横に並んだ3画面を表示するために1つの画面は極端に小さくなってしまう。それでも、3つの画面が別々の映像を流す効果は、映像を染色して青・白・赤に並べ、フランス国旗に見立てるといった工夫がされている。だが、シネスコのようにパノラマ的な効果を狙って3つの画面がつながれた1つの映像は、コマが多少ずれてしまっており、効果よりも限界を感じてしまった。おそらく、実際の映写でもこの問題は付きまとったことと思われる。

 ストーリーは正直、大味な印象を受けた。ナポレオンの少年期から、軍人として活躍を見せるという展開に、フランス革命やナポレオンとジョセフィーヌの恋が織り交じられているが、そのどれもドラマとしては不十分である。だが、ナポレオン自体についてやフランス革命については勉強になる点も多かった。映画を見る楽しみの1つに、知らなかったことを知ることができたり、より深く知るためのきっかけになるということがある点を考えると、勉強になった点は評価しなければならないだろう。

 1つの映像の中にも多重露出を使い、観客に全体のイメージを知覚してもらいたいというガンスの意図が感じられる。最も効果を上げているのは、フランス革命の立役者たちが、ナポレオンにフランス革命の意思を継ぐように命じるシーンだろう。このシーンでは、ほかの映画では見たことがないくらいの無数の多重露出が試みられている。

 ガンスが試みようとした映画の限界への挑戦は、挫折している。だが、その挫折っぷりは見事だ。ストーリーが大味だろうと、「ナポレオン」にはアベル・ガンスという監督の魂が宿っている。それはナポレオンの生涯にも通じる。映画においては、D・W・グリフィスにも通じるものがある。「ナポレオン」には、良質な映画を見て「面白かった」と思う気持ちとは異なる何か大事なものを教えてくれるかのようだ。


ナポレオン [DVD]

ナポレオン [DVD]

映画評「メトロポリス」

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メトロポリス 完全復元版  (Blu-ray Disc)

[製作国]ドイツ  [原題]METROPOLIS  [製作・配給]ウーファ

[監督]フリッツ・ラング  [製作]エーリッヒ・ポマー  [原作・脚本]テア・フォン・ハルボウ

[出演]アルフレート・アーベル、ブリギッテ・ヘルム、グスタフ・フレーリッヒ、ルドルフ・クライン=ロッゲ、フリッツ・ラスプ、テオドル・ロース、ハインリヒ・ゲオルゲ

 「メトロポリス」は、SF映画の古典として、フリッツ・ラングの代表作として、サイレント期の超大作の1つとして名を残す作品である。だが、多くのサイレント期の古典がそうであるように、不完全な形でしか残されていない。フリッツ・ラングが最初に編集したバージョンは、プレミア上映でしか使用されず、一般公開に際してはかなり短くカットされた。さらに、カットされたフィルムは消失してしまい、もはや最初のバージョンで見ることは出来ない。

 私が見たDVDは、オリジナルの脚本などを元にして、フィルムが失われた部分を字幕によって説明されたバージョンである。このDVDを見ると、失われた部分がかなり地味なシーンなことが分かる。主人公のフレーダーは、協力者を得て、労働者たちに近づこうとするがうまくいかない。この部分が大幅に失われている。その結果、私たちが見ることができるのは金のかかったスペクタクルの魅力に溢れたシーンとなった。この点は、「メトロポリス」をSF大作としてのみ評価することにつながったことだろう。といっても、仮にオリジナルのフィルムが残っていたとしても、それで映画全体が面白くなるのかは正直わからないが。

 アメリカで公開される際の再編集にあたって、劇作家がそれを担当した。その際に、単純に映画を短くする以外に、設定を大きく変えてしまっている点は注目に値する。それは、オリジナルでは、ヒューマノイドを作っている科学者の目的が、愛する女性をよみがえらせるためであるという点である。この設定を再編集にあたり削ってしまい、その後のバージョンでは失われてしまっていたのだ。この変更は、映画のイメージを大きく変える。「メトロポリス」は、科学者の失われた愛を求めるための物語でもあったのだ。

 当時の妻だったテア・フォン・ハルボウとラングが担当した脚本は、メチャクチャだ。いい方を変えれば、ハイブリッドである。SF映画でもあり、階級闘争を描いた映画でもあり、失われた愛を取り戻す科学者の物語でもある。また、SFといいつつも、科学よりも魔術に近い描写も多いし、中途半端にサスペンスも盛り込んでいる。当時はまだSFという言葉自体が一般的ではなかった。さらに、ソ連が誕生し、共産主義は当時の政治的話題の中心の1つだったことだろう。そんな時代に未来を描こうとしたとき、映画は純粋なSFにはならなかったということだろう。

 この映画のラストでは、労使協調こそが最善の道であるという点が強調される。この点は、当時かなり批判を受けたといわれるし、今見ても余りにも安易に感じられる。最終的には、科学の力や人間の頭脳を過信と言ってよいほど信じており、科学者に代表される魔術的な力やヒステリーに代表される人間の昂ぶる感情を否定しているように見える。それはそれでよいのだが、とにかくごちゃ混ぜのストーリーをまとめるにはあまりにも強引に感じられるのだ。

 「メトロポリス」は、メチャクチャなストーリー、拡散したテーマ、強引なラストにも関わらず、魅力的な、あまりにも魅力的な映画である。それはなぜか、理由は簡単だ。「メトロポリス」は、見事な映像の連続だからだ。

 冒頭のオープニング・タイトルからして素晴らしい。光の交錯に続いて「METROPOLIS」も文字が登場するこのタイトルの格好よさといったら、「メトロポリス」まで作られたどの映画も凌駕するヴィジュアルだろう。それに続いて描かれる未来都市、地下の工場といったセットの素晴らしさ。さらには、ヒューマノイドのマリアのロボットの時の造形と、悪のマリアと善のマリアの対比。特に悪のマリアの表情、メイク、何といっても乳首のみを隠した格好で踊るダンスの淫靡さ。時にミュージカルのように形式化された群衆シーンと、人間味を感じさせるカオスに溢れた群衆シーン。はっきりいって、脚本と同じように、統一性はない。しかし、「メトロポリス」には監督が感じられる。

 フリッツ・ラングという監督はどういう監督だろうか?この作品の前に作られた「ニーベルンゲン」や「ドクトル・マブゼ」を見ると、大作を撮ることができる監督であること、そしてサイレント時代の映像技術を見事に取り込んだ作品を撮る監督であること、さらにはヒット・メイカーであったことが分かる。膨大な製作費がかかったという「メトロポリス」の製作が可能になったのは、製作のエーリッヒ・ポマーの献身が大きいようだが、それもラングの映画監督としての腕と、ヒット・メイカーとしての経歴があったからこそであろう。

 「メトロポリス」はラングだからこそ可能なビジュアルに溢れた作品なのだ。ラングは、ポマーとともに「メトロポリス」撮影の前にハリウッドに視察に行き、様々な特撮の撮影法を学び、新型カメラのミッチェルを購入している。そしてその経験を元に、ミニチュアやマット・ペインティングを組み合わせた様々な撮影法で、見事に未来都市を映像化しているのだ。

 ラングが「メトロポリス」で見せる様々な映像技術は、決してすべてがオリジナルではない。しかし、誰もアニメを「メトロポリス」ほど格好良くオープニング・タイトルに使おうとは考えなかった。誰も、マット・ペインティングやストップ・モーションの技術を使って、「メトロポリス」ほど大規模な都市を描こうとはしなかった。誰も、ロボットを映画に登場させるなんて考えなかったし、ロボットであることを理由にして乳首だけを隠したダンスを正当化しようとはしなかった。

 「メトロポリス」はあらゆる映画のパイオニア的作品である。それはストーリーにあるのではない。それはアニメの使い方であり、マット・ペインティングやストップ・モーションの使い方であり、ロボットの使い方においてであり、女体の使い方においてである。言い換えれば映画で描くことが出来るものを広げた作品である。

 「メトロポリス」は興行的に成功しなかったという。それはそうだろう。「メトロポリス」はアヴァン・ギャルド映画なのだから。もし伝統的な家族の愛や、男女の愛をテーマにしていたら、ヒットしていたかもしれない。フリッツ・ラングはそこまで計算できなかったらしい。でも、そんな計算できない人間だからこそ、こんなハチャメチャなアヴァン・ギャルド映画を作り上げることが出来たのかもしれないと思うと、ラングの浅い思慮に感謝したい気持ちになる。


メトロポリス / Metropolis CCP-315 [DVD]

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映画評「伯林-大都会交響楽」

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[製作国]ドイツ  [原題]BERLIN: DIE SINFONIE DER GROSSTADT  [英語題]BERLIN SYMPHONY OF A GREAT CITY  [製作]Deutsche Vereins-Film、Les Productions Fox Europa

[監督・脚本]ワルター・ルットマン  [製作・脚本]カール・フロイント

 ドイツの首都であり、当時のヨーロッパが誇る大都市でもあったベルリンの1日を、ドキュメンタリー的に撮影した作品。1920年初頭に起こった「絶対映画」のムーブメントにおいて、「作品」(1921)といった短編を製作したルットマンが監督した作品である。

 ベルリンの1日の見学記というのが最もしっくりくるような気がする。決して観光地を回るわけでもなく、かといってベルリンの奥深くに入り込むわけでもない。道路で、職場で、公園で、交通機関で、レストランで起こることを、テンポ良い編集で見せてくれるのが「伯林」だ。隠し撮りをメインにした撮影と言われるが、その割合は決して多くない。許可をもらって撮影しなければ不可能なシーンは多々ある。加えて、女性が橋の上から川に身を投げるシーンは、入念な演出が行われている事がわかる。

 「伯林」は、あくまでも見学記である。だが、非常に心地よい見学記である。私が見たのは完全に無音のものだったが、音楽があればさらに心地よい見学記であったことだろう。心地良さ以上のものはないかもしれないが、映像の持つ可能性を広げてくれたことは確かだ。

映画評「24ドルの島:マンハッタン」

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[製作国]アメリカ [原題]TWENTY-FOUR-DOLLAR ISLAND  [配給]パテ・エクスチェンジ

[監督・製作]ロバート・J・フラハティ

 「極北の怪異(極北のナヌーク)」(1922)で世界初のドキュメンタリー作家とも言われる、ロバート・J・フラハティが監督した、ニューヨークを撮影したフィルム。マンハッタンの成り立ち(インディアンからオランダが24ドルで購入し、後にイギリスによってニューヨークと命名される)が最初に字幕と絵で説明された後に、1927年当時のニューヨークの姿を映し出す構成になっている。

 遠景と近景を巧みに織り交ぜ、摩天楼と言われるニューヨークの高層ビル群と、それぞれに凝らされた意匠を切り取っている。私が最も面白かったのは煙だ。ビルからも、船からも、多くの煙が立ち上っている。撮影されたのは冬だろうか?今とは使用される燃料が違ったのだ。

映画評「無理矢理列車追跡」

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[製作国]アメリカ [原題]CHASING CHOO CHOOS  [製作]モンティ・バンクス・エンタープライゼス [配給]パテ・エクスチェンジ

[製作総指揮・原案]モンティ・バンクス  [脚本]チャールズ・ホーラン、ハリー・スウィート

[出演]モンティ・バンクス、ヴァージニア・リー・コービン

 暴走する列車に乗っている恋人を助けるために、モンティは列車を車で追いかける。

 モンティ・バンクスは数々のアクション=コメディを製作・出演した人物で、日本では「無理矢理」シリーズとして公開された。「無理矢理列車追跡」は、「安全第一」(1927)という作品から、アクション部分を取り出して短編として公開された作品である。

 コメディというよりはアクションである。当時は、今で言うアクション映画もコメディのジャンルの中に含まれることが多かった。車で列車を追いかけて飛び乗るシークエンス、列車の屋根の上で、多くの追手をかわしたり、落ちそうになったりしながら何とか頑張るスタントは、多くをバンクス自身が演じているように見える。

 元々長編からアクション部分を取り出しているので、より濃密にアクションを感じるのかも知れない。ただ、1つの作品として考えると、ひたすらアクションだけを見せられても、それだけで心の底から楽しむのは難しい。アクション単体で見ると、ハロルド・ロイドにもバスター・キートンにも負けない作品だが、作品全体として見ると物足りなさが残る。これは、短編/長編の違いではなく、1本の作品として作られているか否かの違いだ。