キネトスコープの興行(1)

 エジソンの「キネトスコープ」、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」の機械の開発について今まで書いてきた。ここからは、機械として誕生した映画が人々に受け入れられ、どのように変化していくかを書いていきたい。
 とりあえずは、1895年のシネマトグラフの一般公開まで。ここでは主役はエジソンのキネトスコープとなる。

 エジソンのキネトスコープは1891年8月には特許を取られている。この特許はアメリカ国内におけるものである。エジソンはヨーロッパのほかの国などでは特許を取らなかった。これは、エジソンが映像に未来を感じていなかったために、手続きにかかる費用をケチったからだとも言われている。だが、それ以上にエジソンはそれまでの特許における経験から、どの国でも自国の発明家に対して優先して特許権を認める事を知っていたからではないかとも言われる。
 特許を取った後、エジソンはキネトスコープの商業的利用のために、ノーマン・チャールズ・ラフという、カリフォルニアで鉱山の所有者として富を築いた人物と契約する。ラフは義理の兄弟のフランク・ギャモンと共に、現在の配給会社の活動を行う事になる。アメリカ諸州および諸外国で地域的独占権を認めるという仕事だ。