キネトスコープの興行(2)

 ラフとギャモンは1893年に開かれたシカゴ万博をキネトスコープの発表の場所にしようとして、エジソンに機械の製造を依頼したが、一台しか間に合わなかったらしい。
 1891年に特許を取りながら、1893年の万博に間に合わなかった理由は、鉄鉱石選別事業にエジソンがのめり込んでいたためと、フィルムについてまだ十分な耐久性があるものが入手できなかったからだった。
 1894年にはイーストマンのフィルムにキネトスコープの機構に耐え得る耐久性を認め、エジソンはキネトスコープの工業的生産に移るように命じた。1894年2月には、スタッフが「ブラック・マライア(囚人護送車の意味。光が入り込まないように窓や壁が真っ黒に覆われていたため)」と呼ぶこととなる撮影所を建設。撮影機のキネトグラフは大型でトランクほどの大きさがあり、非常に重かった。さらに、電気で作動するのでブラック・マライアから外に出すのは困難だった。そのため、キネトスコープ用のフィルムの多くは、ブラック・マライアの中で撮影されている。