−1895

 ロバート・ウィリアム・ポール(イギリス)の作品 1895年

イギリスでの最初期の映画製作者であるロバート・ウィリアム・ポールは、リュミエール兄弟の初期の作品と同じように、身の回りの光景を撮影した。 「ドーバーの荒波(Rough Sea at Dover)」 イギリスの映画製作者ロバート・ウィリアム・ポール監督作。 文字通り…

 エジソン社の作品 1895年

1895年はリュミエール兄弟による上映タイプのシネマトグラフの有料上映が始まった年だが、アメリカではエジソン社の覗き見タイプのキネトスコープの興行が行われていた。エジソン社では、キネトスコープと蓄音機を組み合わせて音声つきの映像の試みも行…

 エジソン社の作品 1893−1894(4)

リュミエール兄弟の作品もそうだが、当初は移動撮影を行うという発想自体がなかった。特に、エジソン社のカメラであるキネトグラフは重く、移動撮影を行うことはできなかった。そのため、撮影の対象が、カメラの撮影範囲を超えても、そのまま特に何もないと…

 エジソン社の作品 1893−1894(3)

キネトスコープは覗き見式で1分程度の映像しか見ることができなかった。そのため、「CORBETT AND COURTNEY」のような続いている作品は、いくつかにキネトスコープに分けられた。これによって、見る者は一連の映像を見ることができ、興行側は一連の映像分の…

 エジソン社の作品 1893−1894(2)

初期のエジソン社の作品は、「ブラック・マリア(囚人護送車)」とあだ名された小さなスタジオ内で撮影された。スタジオの設備も弱小だったために、リュミエール兄弟の作品と比較するとリアリティに欠けるが、リアリティを生み出そうという工夫は行われていた…

 エジソン社の作品 1893−1894(1)

エジソン社の作品は、有名だったヴォードヴィルの出し物をそのまま映したタイプのものが多い。「サンドウ教授の運動」では、ヴォードヴィルの出し物ではないが、当時有名だったボディ・ビルダーが出演している。 「BLACKSMITHING SCENE」(1893) 3人の…

 エジソン社が実験的に製作した作品

これからしばらく、1911年までに作られた映画の中から、私が見た作品について紹介していきたい。 リュミエール社やジョルジュ・メリエスの作品についてはすでに触れたが、それ以外の作品を紹介していく。 映画が誕生した年は、フランスのリュミエール兄弟…

 シネマトグラフの一般公開

アメリカでディクソンがミュートスコープを公開したのとほぼ同時期の1895年12月に、フランスではリュミエール兄弟がシネマトグラフを公開している。シネマトグラフはパリの人々を魅了し、多くの観客たちを集めた。 リュミエール兄弟はシネマトグラフの…

 キネトスコープの興行(5)

エジソン社を離れたディクソンは、レイサム一家とも手を切り、他の人々と手を組み、1895年末にアメリカン・ミュートスコープ社を設立する。ディクソンはキネトスコープの特許を侵害しない形で(キネトスコープの開発に参加していたのだから、それは簡単…

 キネトスコープの興行(4)

しかし、キネトスコープの人気は長くは続かなかった。珍しい機械として一通り見られてしまうと、人々は違う見世物へと興味を向けてしまったのだ。キネトスコープの画面があまりにも小さすぎ(3センチ×4センチほどの大きさだった)たために、何回も見て楽し…

 キネトスコープの興行(3)

1894年4月14日、ニューヨークのブロードウェイ1155番地にキネトスコープパーラーが開かれた。続いてアメリカ国内の各都市に広がり、ロンドンやフランスにも広がっていった。 キネトスコープは儲かった。物珍しさから客は押し寄せた。さらに、ラフ…

 キネトスコープの興行(2)

ラフとギャモンは1893年に開かれたシカゴ万博をキネトスコープの発表の場所にしようとして、エジソンに機械の製造を依頼したが、一台しか間に合わなかったらしい。 1891年に特許を取りながら、1893年の万博に間に合わなかった理由は、鉄鉱石選別…

 キネトスコープの興行(1)

エジソンの「キネトスコープ」、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」の機械の開発について今まで書いてきた。ここからは、機械として誕生した映画が人々に受け入れられ、どのように変化していくかを書いていきたい。 とりあえずは、1895年のシネマトグ…