キネトスコープの興行(4)

 しかし、キネトスコープの人気は長くは続かなかった。珍しい機械として一通り見られてしまうと、人々は違う見世物へと興味を向けてしまったのだ。キネトスコープの画面があまりにも小さすぎ(3センチ×4センチほどの大きさだった)たために、何回も見て楽しめるものではなかったという理由もある。公開から1年後には蓄音機とキネトスコープを組み合わせた「キネトフォン」を導入するも、人気の回復まではいたらなかった。
 そんなキネトスコープに追い討ちをかけたのが、エジソン社を離れたウィリアム・ディクソンが開発したミュートスコープだった。

 エジソン社で働き、キネトスコープの開発にも大きな役割を果たしたウィリアム・ディクソンは1895年の初春にエジソン社を去ることとなる。ディクソンはエジソン社に在籍しながら、当時キネトスコープ・パーラーを経営して、上映式の映写機の開発を目指していたレイサム一家と手を組んだのだが、そのことをエジソン社側の反感を買ったのだ。エジソン社が上映式の映写機の開発をディクソンに認めていれば、ディクソンはエジソン社を離れることはなかったのかもしれない。ただ、それ以外にもディクソンはエジソンがキネトスコープ開発に関する功績をすべて自らもものにしたことにディクソンが反感を持っていたという面もある。