1896年までの他の状況

 1896年までの状況は、決してリュミエール兄弟エジソン社、アメリカン・ミュートスコープ社のみによって成立しているわけではない。

 後に、映画製作者として華々しい活躍をするジョルジュ・メリエスは、リュミエール社にシネマトグラフの購入を断られたため、別ルートから映写機・撮影機を入手して、映画製作を開始している(1896年秋にトリック撮影を思いついたともされている)。「悪魔の城」(1896)には、吸血鬼が登場する。この吸血鬼は映画にモンスターが登場する最初期の例とも言われるが怖さよりも奇抜さが目立つものだったという。

 メリエスの他にも、後にフランス映画界を支えていくことになるパテ社やゴーモン社もまだ目立った作品を製作してはいないが、映画製作を行っている。

 また、他にもアメリカ、ヨーロッパ問わず、多くの人々が撮影機、映写機を用いて興行を行っている。特に、リュミエール社がシネマトグラフを売り出さなかったために、ヨーロッパでは模倣されたものも含めて、多くの撮影機・映写機による興行が行われた。

 スペインでは、1896年5月にシネマトグラフが上映されている。A・プロミオがマドリードのホテルの一角で映画興行を行ったと言われ、プロミオがスペインで撮影した作品も上映されたという。またスペイン映画の第一作と言われる「サラゴサのピラール大聖堂での大ミサ後の退出風景」が10月に撮影されている。撮影者はエドゥアルド・ヒメーノという親子である。ヒメーノ親子は蝋人形の興行師から映画興行に転身し、サラゴサでシネマトグラフの興行を行おうとしたときに競争相手がいることを知り、独自性を出すために撮影も行ったと言われている。

 ちなみに、ロシアや中国の上海、ポーランドハンガリーでも、1896年にシネマトグラフが公開されている。イギリスでも、ロンドンのロイヤル・ポリテクニック・インスティチュートでシネマトグラフが上映されている。メキシコでもガブリエル・ヴェールとクロード・フェルナン・ボン・ベルナールが、メキシコシティでシネマトグラフを上映している。

 ロシアでは舞台俳優で写真好きだったV・サーシン=フョードロフが、1896年から映画撮影を始めたと言われている。モスクワの鉄道馬車、ボゴロズコエの消防隊、劇場前の観客。自ら園丁に扮しての即興演技などを撮影したという。また、ハリコフの写真スタジオ主だったA・フェデツキーという人物も、修道院や都市の風景、コサックの曲乗り、聖像画の行列などを撮影したという。

 イタリアでは、2月からトリノでイタリア初の有料上映が、4月からはミラノで上映が行われたといわれている。シネマトグラフの存在を知ったトリノのヴィットリオ・カルチーナは、リヨンで撮影の技術を学び、1896年11月頃からイタリア国内での撮影を開始したという。イタリア国王夫妻の行事を撮るうちに、王家も機械に興味を持つようになり、カルチーナは王室お抱えの映画カメラマンとなったという。フィルムはリュミエール社に送られた。

 同じイタリア・ミラノの写真スタジオの経営者だったイタロ・パッキオーニは、リュミエールから撮影機を買おうとするが断られた。だが、パッキオーニは弟と技師の助けを借りて、撮影機を製作したと言われている。1896年には「ミラノ駅の列車到着」といった実写映画や、ミラノ公園で撮影した「雪合戦」といった劇映画を撮影したという。これらを見世物小屋で上映された。

 さらにイタリアでは、イタリア、フランス、スペインなどのカフェ・コンセールの人気喜劇役者だったレオポルド・フレーゴリが映画を撮影していた。フレーゴリは、リュミエール兄弟と知り合い、撮影機の使い方を教えてもらったという。「カフェのフレーゴリ」「レストランのフレーゴリ」といった短いフィルムを、自分の舞台が終わったあとに上映したと言われている。また、フレーゴリはスクリーンの裏から画面上の自分にあわせて発声もしたという。っさらに、フレーゴリは逆回転の面白さも知っており、逆回転で上映して客を驚かせたという。「フレーゴリグラフ」と称したこれらの作品は、1896年から1900年までイタリア始め各国で上映された。映画を宣伝した功績の一端を担ったとも言われている。

 ドイツのスクラダノフスキー兄弟は、自らが開発したビオスコープの興行を行っていた。パリのフォリー・ベルジェールに興行を申し出たが成立せず、1896年4月からオスロを皮切りに、オランダ各地、コペンハーゲンその他北欧諸都市を回ったという。作品も実景や舞台の再現だけではなく、コント「こっけいな出会い」をストックホルムチボリ公園で製作するなどして増やしていった。

 またドイツでは、後に1900年代から第一次大戦にかけてのドイツの代表的なプロデューサーとなるオスカー・メスターも、活動を開始している。メスターは、父が光学機械製造工場を持っており、1896年のシネマトグラフのベルリン公開を機に、マルチ・クロスを使用したすぐれた撮影機・映写機を製造した。続いて、パーフォレイター、現像機などの映画機材を売り出し、ドイツの代表的な映画機器製造販売会社へと発展していった。

 一方でメスターは、映画製作にも乗り出した。1896年11月、ベルリンのフリードリッヒ・シュトラーセ94番地に小さな映画スタジオを設立した。人工照明を導入し、ライティングを使ったエジソン・スタイルの作品を撮影したという。一方で、家族スナップ、屋外風景、ニュースなどのリュミエールのジャンルの作品も製作したという。

 だが、当時のドイツでは、封建的知識階級が映画を低俗とみなしていたため、発展に時間がかかったと言われている。

 北欧各地でも映画が上映された。上映に使われた機械は、ドイツのビオスコープだったり、エジソンのヴァイタスコープだったり、シネマトグラフだったりと様々だったという。

 北欧でも映画撮影が行われた。代表的な人物としてデンマークのラース・ペーター・エアフェルトがいる。デンマーク王室御用達の写真家として活躍していたエアフェルトは、1896年にパテ社のカメラで記録映画「ソートダムの白鳥たち」「消防隊出動」「アスファルト敷設工夫」を撮影したという。これらの作品が、北欧人が作った最初の北欧映画と言われている。また、デンマークを訪問したロシア皇帝も撮影した。この後エアフェルトは、いくつかの映画会社創立に関係し、自分でも何本かの劇映画を監督した。エアフェルトの作品には舞台の名優が出演し、若き日のアスタ・ニールセンも端役で出演したという。

 後に年間本数は700本とも900本とも言われるほどの世界一の映画製作本数を誇ることになるインドでは、ボンベイ(後に東洋のハリウッド「ボリウッド」と呼ばれるようになる)でイギリス人観客を対象としたリュミエール作品が6本上映されている。楽団による伴奏つきでも上映され、インドに映画の面白さが広まっていったという。さらには、リュミエール作品は東南アジアでも巡回上映された。

 アイルランドでも劇場オーナーのダン・ロウリーがダブリンでシネマトグラフを公開し、熱狂的に受け入れられたと言われている。