1896

 アメリカン・ミュートスコープ社の作品 1896年

当時のアメリカ映画界はエジソン社だけしか存在しなかったわけではない。有力の競合会社として、アメリカン・ミュートスコープ社(後のバイオグラフ社)が存在した。この会社には、キネトスコープの開発者であるW・K・L・ディクソンが所属していた。アメリ…

 エジソン社の作品 1896年(4)

今も昔の人間の野次馬根性は変わらず、火事現場を見たいという欲求も変わらないようで、火事を扱った作品が多数残されている。といっても、ほとんどが本当の火事ではなく、演出されたものである。 「MOUNTED POLICE CHARGE」(1896) 多くの警察の騎馬隊…

 エジソン社の作品 1896年(3)

この頃の作品の中には日常の風景や事件をそのまま撮影しているかのように見える作品が多々あるが、多くが演出されている。「THE BURNING STABLE」といった作品がそうだが、言われなければ本当の火事の様子と錯覚してしまいそうだ。それは、現在の演出された…

 エジソン社の作品 1896年(2)

エジソン社の初期の作品の多くは、ブラック・マリアと呼ばれた撮影所内で撮られたものが多かったが、この頃になるとロケ撮影も行われるようになってくる。「MESS CALL」はそんなエジソン社初期のロケ撮影にとって撮られた作品である。 「FATIMA, MUSCLE DANCE…

 エジソン社の作品 1896年(1)

1896年になると、覗き見式のキネトスコープの人気は落ち、上映式のヴァイタスコープを世に放つ。この時期は、覗き見タイプから上映タイプへの移行期でもあり、「メイ・アーウィンとジョン・C・ライスの接吻」を巡る出来事のような移行期ならではの出来事…

 1896年までの他の状況

1896年までの状況は、決してリュミエール兄弟とエジソン社、アメリカン・ミュートスコープ社のみによって成立しているわけではない。 後に、映画製作者として華々しい活躍をするジョルジュ・メリエスは、リュミエール社にシネマトグラフの購入を断られた…

 シネマトグラフのアメリカ進出とバイオグラフ

ヴァイタスコープの成功は長くは続かなかった。その理由はライバルたちにある。 1896年6月、アメリカ国外のライバルであるリュミエール社のシネマトグラフがアメリカで公開される。ヴァイタスコープよりも映写の質が高かったシネマトグラフは高い人気を…

 ヴァイタスコープ(2)

1896年4月、ヴァイタスコープはエジソンの発明として記者公開される。数週間後にはニューヨークで一般デビュー。このとき、称えられるエジソンとは対照的にアーマットは映写室にこもって機械の操作に汗を流した。 ヴァイタスコープは興行的に成功を収め…

 ヴァイタスコープ(1)

まだ、アメリカにシネマトグラフが輸入される以前の1896年の初頭、ミュートスコープの人気とキネトスコープの凋落により、窮地に陥ったラフとギャモンに救世主が現れる。それは、エジソンではなく、トーマス・アーマットという人物だった。彼は、上映式…