シネマトグラフのアメリカ進出とバイオグラフ

 ヴァイタスコープの成功は長くは続かなかった。その理由はライバルたちにある。

 1896年6月、アメリカ国外のライバルであるリュミエール社のシネマトグラフがアメリカで公開される。ヴァイタスコープよりも映写の質が高かったシネマトグラフは高い人気を博し、ヴァイタスコープにダメージを与えた。

 1896年10月、国内のライバルであるアメリカン・ミュートスコープ社のバイオグラフがデビューする。ヴァイタスコープよりも8倍大きいコマ面積の映像を実現し、高い鮮明度と安定度を保持しており、ヴァイタスコープにダメージを与えた。

 エジソン社は早々とヴァイタスコープに見切りをつけることになる。そして、完全にエジソンの特許であるキネトスコープを改良した映写機、上映式キネトスコープを売り出すことになる。ただ、ここでの特許は、エジソンがひそかに修正項目を申請したものであるのだが。