シネマトグラフの輸入と興行(1)

 1897年(明治30年)2月15日、リュミエール兄弟によって作られたシネマトグラフが、大阪で公開された。

 シネマトグラフを輸入したのは、稲畑勝太郎という人物。稲畑は、かつてフランスに留学した頃に知り合いになっていたオーギュスト・リュミエールと再会し、シネマトグラフを知った。シネマトグラフに感心した稲畑は、シネマトグラフの日本興行権をリュミエール兄弟から得て(稲畑とリュミエール社の間でシネマトグラフの売上の60パーセントをリュミエール社に支払う契約を結んだ)、帰国した。

 稲畑は、シネマトグラフの公開に際して、自動写真協会の名を設け、自らの名前をあまり表には出さなかった。これは、当時の興行界は、やくざな仕事として堅気の仕事から一段下と思われていたため、自ら一流事業家を自認する稲畑としては(後に大阪商業会議所の会頭も努める)、自分の名前を出したくなかったからだったという。当時の興行界は、任侠の世界の仕切っており、挨拶回りや金の提供が必要であった。稲畑はそういった興行のしきたりのわかる興行師の奥田弁次郎に興行の仕切りをまかせた。

 シネマトグラフは1坪(畳2枚分)の大きさで上映され、10作品くらいを1つの番組として上映したという。1つの作品は1,2分だったが、フィルムの交換などを含めると、一番組40分〜1時間くらいだった。料金は8銭くらいだったといわれている。先に行われたキネトスコープの料金と比べると安い。