キネトスコープの輸入と興行


 日本では独自に映画の撮影機・上映機は開発されなかった。そのため、日本における映画の始まりの記述は、機械の輸入から始まる。

 1896年(明治29年)11月、キネトスコープとフィルムが輸入され、神戸で上映会が開催された。その後、大阪や東京でも興行が行われるが、すぐ後に上映機が輸入されたために、その人気は短期間のものであった。

 塚田嘉信の「日本映画史の研究」によると、輸入した高橋信治氏はもっと前からキネトスコープの輸入をエジソン社に依頼していたが、断られていたという。アメリカでの公開から2年半(ニューヨークにキネトスコープパーラーが出来たのが、1894年4月)も輸入できなかったのは、アメリカでキネトスコープの人気が落ちるまでは国内の需要に応えていたためではないかとも書かれている。

 いわば、アメリカでの人気がなくなり、用済みとなったからこそ、日本からの要請に応えたといえる。日本以外の国でも同じような状況だったと思われるが、キネトスコープの日本での人気がすぐに急落したことを考えると、エジソン社のやり方はちょっとひどい。高橋氏に同情する。

 興行は10種類のフィルムを日ごとに分けて行ったという。見る時間は1、2分ですぐに終わってしまうため、長い説明を交えて行った。料金は20銭ないしは30銭だったという。