−1901(日本)

 日本における初期映画興行

日本における初期の映画興行は、主に巡回上映だった。各地の祭礼などで奇術・水芸・因果ものの見世物と同じようにテント張りで興行が行われた。新居商会からヴァイタスコープを購入した駒田好洋や、シネマトグラフの東京興行の際に取り仕切った横田永之助が…

 日本における初期映画製作(2)

駒田好洋は小西写真店からカメラを購入し、新演劇むつみ一座の俳優を使って、稲妻強盗の逮捕の様子を描いた作品の撮影を柴田に依頼する。これは、日本の俳優を使った劇映画の第一作とされる。 さらに柴田は、九代目市川団十郎・五代目尾上菊五郎の「紅葉狩」…

 日本における初期映画製作(1)

日本における映画製作は、1897年(明治30年)秋までに小西写真店(後にコニカとなる)にカメラが輸入されるところから始まる。輸入されたカメラを使って、日本人による最初の映画撮影が行われる。撮影を行ったのは、小西写真店の当時20歳の青年・浅…

 リュミエール社が撮影した日本(3)

また、フランス人のイデオロギーに合わせるための演出も行われていたようだ。「家族の食事」と題された作品(実際はお茶を飲んでいるシーン)では、当時の日本の風習ではありえない男女同席でお茶を飲む光景が撮影されている。これは、西欧の家族の概念に合…

 リュミエール社が撮影した日本(2)

日本を撮影したリュミエール社の作品を見るとき、注意しなければならない点がある。それは、演出が施されているという点だ。リュミエール社の作品はドキュメンタリーであると一般的な認識は必ずしも正確ではない。日本に限らず、他の国で撮影されたフィルム…

 リュミエール社が撮影した日本(1)

稲畑勝次郎がシネマトグラフを輸入して帰国した際、リュミエール社の技師コンスタン・ジレルが一緒だった。日本にやってきたジレルは、日本の光景を撮影して、リュミエール社に送っていた。また、ジレルが帰国した後にはガブリエル・ヴェールという人物が日…

 ヴァイタスコープの輸入と興行

1897年(明治30年)2月21日、大阪で荒木和一が、エジソン社が発表していたヴァイタスコープを公開。続いて3月には東京で公開されている。 東京での公開は新居商会という会社が行った。料金は特別席1円、一等50銭だったという。この料金がシネマ…

 シネマトグラフの輸入と興行(2)

大阪での興行に続いて、東京でも上映が行われている。東京での上映は、稲畑に興行を一任された横田永之助という人物が取り仕切って行われた。横田はこの後も映画界に残り、大立者として映画界に影響を及ぼしていく。そんな横田に対して、稲畑は新しい機械を…

 シネマトグラフの輸入と興行(1)

1897年(明治30年)2月15日、リュミエール兄弟によって作られたシネマトグラフが、大阪で公開された。 シネマトグラフを輸入したのは、稲畑勝太郎という人物。稲畑は、かつてフランスに留学した頃に知り合いになっていたオーギュスト・リュミエール…

 キネトスコープの輸入と興行

日本では独自に映画の撮影機・上映機は開発されなかった。そのため、日本における映画の始まりの記述は、機械の輸入から始まる。 1896年(明治29年)11月、キネトスコープとフィルムが輸入され、神戸で上映会が開催された。その後、大阪や東京でも興…