シネマトグラフの輸入と興行(2)

 大阪での興行に続いて、東京でも上映が行われている。東京での上映は、稲畑に興行を一任された横田永之助という人物が取り仕切って行われた。横田はこの後も映画界に残り、大立者として映画界に影響を及ぼしていく。そんな横田に対して、稲畑は新しい機械を世間に知らしめるという当初の目的が達成されると、すぐに興行から身を引いた。

 シネマトグラフの京都での上映の際には、スクリーンの後ろから上映し、スクリーンの透明性を保つために、時々スクリーンに水をまいたという話があるが、真偽は定かではない。また、上映前に説明が加えられた。行ったのは、奥田弁次郎の知り合いで、素人義太夫の世界から口上屋となった上田布袋軒だった。さらには、音楽伴奏も導入された。後に弁士という日本的独自の映画文化の萌芽が見られる。

 東京以外でも、横浜でもシネマトグラフが上映されている。こちらは吉沢商店という会社が行った。大阪、東京の上映で使用されたシネマトグラフとは別物で、「日本映画史の研究」によると、稲畑が輸入したシネマトグラフは2台であり、そのうちの1台を吉沢商店に譲ったのではないかとされている。吉沢商店は、シネマトグラフに着色をしてカラー上映も行ったという。