ヴァイタスコープの輸入と興行

 1897年(明治30年)2月21日、大阪で荒木和一が、エジソン社が発表していたヴァイタスコープを公開。続いて3月には東京で公開されている。

 東京での公開は新居商会という会社が行った。料金は特別席1円、一等50銭だったという。この料金がシネマトグラフと比較して高いのは、発電にダイナモや石油発動機を使うなど、設備が大掛かりだったからだという。また、説明や場面の開発をする人物もいたという。

 東京での公開の際に、広告代理店の広目屋という会社が宣伝を担当した。この広目屋に駒田好洋という人物がいた。駒田は後に、ヴァイタスコープの機械を新居商会から譲り受け、興行を行うこととなる。

 ちなみに、シネマトグラフとヴァイタスコープの名前は、当初別々に使われていたが、1899年頃には「活動写真」で統一されることになる。