1898年のその他の状況

 1898年においては、ジョルジュ・メリエスは幻想的な映画にするためのテクニックに磨きをかけていた。ミニチュア撮影、二重焼き、多重露出、マスク、移動撮影(対象に近づいたり離れたりすることで、画面上の人物が大きくなったり小さくなったりした)といったテクニックを活用していた。

 イギリスでは、ロバート・ウィリアム・ポール、ジェームズ・ウィリアムスン、ジョージ・アルバート・スミスといった人々が映画の撮影を行っていた。ウィリアムスンやスミスは後にブライトン派として名を残すことになる。この年作られた作品としては、スミスによる幻想的な「シンデレラとフェアリー・ゴッドマザー」や、「干し物」(1898)といった作品があるという。

 「干し物」は、女中が洗濯物を干しているところへ亭主がやって来て、シーツの後ろで接吻。そこに女房が現れて、亭主をやっつけるという内容で、亭主が女中のお尻に少し触れるというエロティックな部分もあったという。

 同じくイギリスでは、セシル・ヘップワースが、オックスフォード対ケンブリッジのボート・レースを撮影して映画作りに乗り出し、ウォルトン=オン=テムズに撮影所兼現像所を開いている。

 さらにイギリスでは、ロンドンにフランス・ゴーモン社の支社が開設され、配給と製作を開始している。

 スペインでは、フランクトゥオッソ・ヘラベルトが国王のバルセロナ訪問を撮影している。スペイン初のドキュメンタリーと言われ、外国に売れた初のスペイン映画でもある(パテ社が購入)。

 イタリアでは、「世紀末の新奇館」という名の映画館がローマに誕生している。

 朝鮮では、京城(現在のソウル)で、アメリカ人興行師によって、フランス製短編が初上映されている。