日本 日露戦争

 この年は、日露戦争が勃発した年であり、日本映画界も日露戦争の影響を大きく受けることとなる。

 日露戦争には吉沢商店などがカメラマンを派遣した。撮影競争が激しく、深入りしすぎて戦死したカメラマンもいたといわれている。また、日本からだけではなく、世界各国から戦闘の様子を撮影するためにカメラマンが派遣されていた。

 日露戦争を撮影した作品の興行には多くの観客が訪れた。地方でも巡回興行を行い、多くの観客を集めた。当時の日本の映画興行は、外国映画の輸入によって何とか成り立っていたが、日露戦争の作品によって映画興行は一気に活気付いた。日露戦争を撮影した外国のフィルムを輸入し、使用したりもした。

 興行的に苦戦していた吉沢商店も日露戦争映画によって収入が増え、設備が雑だった映画専門館の電気館の館内を整備することができるようになった。

 現在残っているフィルムによって、旅順陥落のときのロシア軍ステッセル将軍との会見に訪れる乃木大将一行などを見ることができるが、中には見るからにやらせのものもあるという。

 日露戦争の映画の広告には撮影中にロシア軍の捕虜になったなど大げさとも思われる文言があったり、明らかにやらせのフィルムがあったとしても、日本映画はここに来て新奇な見世物からマスコミの役割を見せることになる。