その他(1905)

 映画はこの頃モノクロであったが、フィルムに直接着色することで、カラーとしても上映を行っていた。はじめは手作業で行っていたこの着色の作業だが、1905年頃から機械化されるようになったといわれている。

 ドイツでは1905年以降、セルロイドに代わる、不燃性のアセテート・フィルムの製造工程を練り上げ、フィルムはパテやリュミエール社といった製造会社に売られた(特許はドイツの化学トラストが所有していた)。

 また、この頃からポルノ映画が製作され始め、警察の摘発が行われた。また、未成年者の入場を禁止した際物映画も製作されたが、教会からの非難を浴びるようになり、大手の映画会社のカタログからは削除された。

 ヨーロッパの映画興行がこの頃から大都市を中心に発展していく。だが、まだ巡回興行が中心であり、アメリカの発展とは比べ物にはならないものであった。

 1905年秋、北京の豊泰(フォンタイ)照相館(写真館)で、中国人による最初の映画製作が行われた。リュウ・チョンルンが京劇俳優の演技を撮影した「定軍山(リンジュンシャン)」(1905)がそれである。

 スウェーデンでは、映画製作会社のクリスティアンスターズ・ビオグラーフ=テアテルン社が設立されている。