モーション・ピクチャー・パテント・カンパニー(MPPC)の設立(1)

 1907年末に、エジソン社の特許料の支払いに同意したアメリカの8つの映画会社は、エジソン社との協定に調印した。しかし、この8つの映画会社には、バイオグラフ社という大きな映画会社は含まれていなかった。

 エジソン社は映画の賃貸業者に対して、年間5,000ドルを支払うことも要求していた。賃貸業者の半数は同意したが、半数は拒否した。拒否をした映画会社はエジソンカルテルに加盟しなかったバイオグラフ社に期待をした。

 バイオグラフ社は、独自の特許を所有していることを主張し、エジソン社に対抗した。エジソンカルテルに反対する人々を集めて、バイオグラフ社を中心としたカルテルの形成を行おうともした。

 そんなバイオグラフ社だが、台所事情は決してよくなかった。前年末には20万ドルの損失を出してしまい、出資会社からジェレマイア・ケネディが派遣され、バイオグラフ社のトップになっていた。

 エジソン社のカルテルに参加していた輸入映画業者のジョージ・クラインの仲介で、エジソン社とバイオグラフ社が会談を行うことになった。バイオグラフ社ケネディは、バイオグラフ社が所有している特許をエジソン社が買い取ることを要求したが、エジソン社はこれを拒否した。