エジソンのトラスト(MPPC)に対するヨーロッパの動き

 アメリカにおけるカルテルの形勢は、ヨーロッパにも影響を及ぼした。ヨーロッパからカルテルの参加が認められたのは、パテ社とジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社の2社だけだった。

 3月に、ヨーロッパの映画製作会社たちによる国際会議が開催されている。ここでは、エジソンカルテルに不参加だった(後に加盟する)バイオグラフ社との協定が提案された。

 だが、ヨーロッパの映画製作会社たちは一枚岩ではなかった。フランスのゴーモン社、イギリスのアーバン社、イタリアのチネス社は会議での提案に関わらず、カルテルへの加入を申し込んでいた。だが、この申し込みはパテ社の反対にあって失敗に終わっている。

 3月の会議の後に、新たな国際会議の開催の提案があった。この会議の議長はジョルジュ・メリエスが担当することになったが、パテ社のシャルル・パテが会議の開催に反対していた。パテが反対していた理由は、ヨーロッパの映画会社で互いの利益を守るために協力するよりは、他の映画会社が衰退していくこと(パテ社の独占を拡大すること)が望みだったからだ。

 このシャルル・パテの態度に対して、ジョージ・イーストマンがヨーロッパにおける独占ではなく、カルテルの方が有益であることをシャルル・パテに説いた。パテは同意し、会議への出席を決めた。

 生フィルムを製造していたジョージ・イーストマンにとっては、フィルムが売れればよかったわけである。1社の独占よりも、映画業界全体の拡大がイーストマンにとっての利益となった。そのために、1社が失敗すれば、業界全体がなくなってしまう可能性があるトラストよりも、1社が失敗しても他社がカバーできるカルテルの方がイーストマンにとって都合がよかったのだろう。

 イーストマンは、アメリカにおいてはエジソン社に対して、ヨーロッパに対してはパテ社に対して、トラストよりもカルテルの道を進言している。その裏にはイーストマンの計算が見え隠れしている。