パテ社とジョルジュ・メリエス(2)

 順調すぎるくらい順調だったパテ社に対してメリエスは、「各時代にわたる文明」(1908)といったメリエス流の夢幻的な作品を製作したが、興行的に振るわなくなっていた。文芸作品、庶民的な喜劇を制作するも失敗した。舞台にこだわっていたメリエスが、アドバイスに従って野外撮影をおこなってみたりもしたが、失敗した。エクレール社を設立したクレマン・モーリスから一緒にやらないかという誘いもあったが、メリエスは断った。

 ジョルジュ・サドゥールはこの頃のメリエスについて次のように書いている。

「彼(メリエス)はその才能を十年も早く花咲かせたものの、囚われ人であった。彼は完全に自分の偉大な過去に閉じ込められており、その時代に全速力で追い抜かれるがままになっていた」

 そんなメリエスは、業界の名士としての仕事に誇りを感じていた。ヨーロッパで開かれる映画会社の国際会議の議長に選出されたことは、メリエスにとって大きな誇りとなった。また、メリエスは、エジソンカルテルに加盟をしたがっている他のヨーロッパの映画会社のために斡旋を行ったりもしていた。

 メリエスのスター・フィルムはエジソン社を中心としたMPPCに参加していたが、参加を決定したのは、メリエスがスター・フィルムのアメリカ支社を任せていた兄のガストンとガストンの息子のポールだった。

 カルテルの規定でスター・フィルムのアメリカ支社は、週100メートルの映画を供給しなければならなかった。映画はもちろんフランスでメリエスが製作したものであったが、メリエスの作品の製作は滞りかがちになり、またアメリカでのメリエスの映画の人気も低迷していた。

 そのため、ガストンとポールはエジソン社の許可を得て、アメリカ人好みの作品を作るために、アメリカ資本の企業(メリエス・マニュファクチャリング・カンパニー)を設立し、映画を製作した。

 次からしばらく、メリエスが製作した作品について触れたい。