ニッケルオデオンの拡大と映画製作(アメリカ)

 1908年当時のアメリカでは、ニッケルオデオンの拡大(この年の末には1万館に達した)によって伸びた映画への需要に後押しされ、映画製作も順調に行われていた。しかし、エジソン社を中心としたMPPCに所属していた映画会社は作品にそれほどの工夫を凝らしてはいなかった。

 ジョルジュ・サドゥールは当時のアメリカの映画製作について、次のように語っている。

「ヨーロッパの映画会社が自国内で十本のプリントを売っていた時、アメリカの映画会社は国内で百本のプリントを売っていた。従って、より多くの製作費をかけた映画を企画することもたやすかったであろう。しかし、映画製作者たちは利益の一部を還元しようとはしなかった。エディスン社の音頭でトラストは生まれたが、その目的の一つは低予算の映画製作を守ることにあった」(世界映画全史)

 カルテルに所属していた映画会社の1つであるヴァイタグラフ社は、この年週に4本の作品を製作していたといわれている。ヴァイタグラフ社では、高尚な主題を取り上げたり、古典演劇の映画化を行ったりしていた。