日本 吉沢商店の目黒撮影所

 吉沢商店はこの年、日本初となる撮影所を目黒に完成させている。太陽光を利用するために屋根と周囲をガラス張りにしたグラス・ステージで、四間に四間半というごく小さいものだったが、カメラの引きができるようになっていた。設計は吉沢商店の経営者である河浦謙一で、1904年に訪米した際に視察したエジソン・スタジオを参考にしている。1万2千坪の敷地内には池を掘ったりして、実景を撮影したりもした。

 続いて吉沢商店は考案部(企画部)を作った。部長に新派の劇作家・佐藤紅緑が就任し、部員に紅緑の弟子の作家桝本清、紅緑の速記者小口忠らがいた。河村社長の方針で、月に1度、紅緑から部員まで全員が集まり、考案会議を行い、来月撮影する作品を無記名投票で決定したという。また専属俳優の養成も行われた。佐藤紅緑の原作ものをはじめ、有名な新派劇が片っ端から映画化された。俳優は本郷座の舞台に出演している新派俳優を昼間だけアルバイトで使ったという。




(映画本紹介)
魔術師メリエス―映画の世紀を開いたわが祖父の生涯

 ジョルジュ・メリエスの孫であるマドリーヌ=マルテット・メリエスによるジョルジュ・メリエスの評伝。メリエスの映画製作はもとより、妻や愛人の関係や映画製作を行わなくなってからのメリエスの様子などが描かれている。
 映画製作を行わなくなった後のメリエスが、世間的に言われるほど不幸ではなかったことがわかる。
 身内が書いているので、メリエスびいきになっているのを考慮に入れて読む必要がある。