文芸作品の波及 イタリア、デンマーク

 フランスで隆盛した文芸映画作品は、イタリアにも飛び火した。アンブロージオ社は、「黄金シリーズ」と題し、文芸映画を製作した。

 アンブロージオ社では、ルイジ・マッジ監督「偽証の女」(1909)が製作されている。この作品から、書割や安っぽいセットから、本物のサロン、部屋、ガラス窓、磨かれた床、絹のカーテン、きらびやかな家具などが使われるようになり、照明も自然光から人口照明にと変わったという。映画は大ヒットし、イタリア映画の方向に影響を与えたと言われている。セットへのこだわりは、脚本家だったアルリーゴ・フルスタ(1909年−1923年にかけてダヌンツィオ作品の脚色も含めて300本以上の脚本を執筆)の意見が大きかったという。

 また、パテ社がイタリア進出してきた。この年、パテ社はローマにフィルム・ダルテ・イタリアーナ(FAI)を設立している。劇作家ウーゴ・ファレーナは、パテのヴァンサンヌ撮影所で学び、帰国後は監督も務めた。ウーゴは、当時映画を軽蔑していた演劇界の著名な俳優に映画出演させるという功績を残している。だが、第1作「オセロ」(1909)にイヤーゴ役で出演したチェーザレ・ドンディーニは、劇団幹部の怒りに触れて劇団を首になっている。以後、歴史劇映画を専門とするが、独創性に欠けていたと言われる。

 上記よりもイタリア映画界に大きな影響を与えた出来事として、著名な作家・劇作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオがSAFFI社(1909年にミラノ・フィルムスに改名)と契約したことだ。ダンヌンツィオ原稿料1万2千リラで6本の契約を結んだ。だが、ダンヌンツィオは脚本を書かず、訴えられて敗訴している(すでに支払われていた前払い金は戻ってこなかった)。

 ダンヌンツィオは映画の脚本を欠かなかったが、彼が映画に興味を示したことは、映画の社会的地位を高めたと言われている。この出来事がきっかけで、映画を低く見ていた舞台役者の中にも、映画に積極的に参加する方がよいという声が高まったとう。

 チネス社で製作されたマリオ・カゼリーニ監督、フェルナンダ・ネグリ主演の「ベアトリーチェ・チェンチ」(1909)は、父殺しのために1599年に処刑された貴族の娘の物語で、実際の舞台となったローマのサンタンジェロ城でロケが行われた。また、イタリアで初めて監督と主演者の名前がポスターを飾った作品であるという。

 ちなみに、後に「クオ・ヴァヂス」(1912)を監督するエンリコ・グアッツォーニは、自らが設立したコスモス社がうまくいかずに、チネス社と再契約している。グアッツォーニは、カゼリーニ作品の装置を担当した。

 一見順調だったチネス社だが、1909−10年にかけて不況の波をかぶり、ローマ銀行からアルベルト・ファッシーニ男爵が派遣されている。
 
 当時のイタリア映画の中心はトリノだった。中でもイタラ・フィルムがトップに君臨していた。イタラ社はすぐれた多くの俳優と契約を結んだが、フランス人俳優が多かったという。喜劇俳優として人気を得たアンドレ・デードもフランス人だった。

 この年にイタラ社製作された作品としては、ジョヴァンニ・パストローネ監督の「ウゴリーノ伯」「鉄仮面」(1909)などがある。

 ミラノ・フィルムス(1909年にSAFFIから改称)では、フェルラーラにロケを行った「ウーゴとパリシーナあるいはフェルラーラ宮廷の恋」(1909)や、ダンテの「地獄篇」の映画化である「インフェルノ」(1909)が、ジェゼッペ・デ・リグオロ監督で製作されている。

 「インフェルノ」は、14世紀の忠実な描写と再現で話題にとなった。ダンテの恋人の頭に輝く後光が話題となった。カメラマンがトリックの秘密を誰にも明かさなかったために話題は大きくなったという。主要な役にはアマチュアが起用。素人役者に対する抵抗感がないのは、イタリア映画界の特徴の1つと言われている。

 人気のあった俳優としては、女優リディア・デ・ロベルティ(後のリディア・ボネッリ)や、男女コンビのアルベルト・A・カポッツィとマリ・クレオ・タルラリーニらがいた。

 喜劇の分野では、政治風刺劇である「立候補者になる方法」(1909)などが作られている。アンドレ・デードも変わらぬ人気を誇っていた。デードの作品には、エミリオ・ギオーネが出演していた。ギオーネは、トリノのアクイラ社にエキストラとして入社後、1909年にイタラ社へ移籍。一見して忘れがたい風貌を武器に俳優として活躍した。

 1909年にも、イタリアでは多くの映画製作会社が誕生した。

 トリノではウニタスという映画製作会社が誕生している。若い観客に道徳的・教育的映画を提供しようとした。1909年には、映画が人々を堕落させるという理由から、ローマ教皇庁が僧服を着て映画館に入ってはいけないという通達が出ており、こうした映画への非難に対応したものだった。

 同じくトリノでは、エルネスト・マリア・パスクアーリがパスクアーリ・エ・テンポ(後にパスクアーリ・フィルムス)を設立している。トリノの小さな庭に建てられたテント張りのスタジオからのスタートだったが、この年「エットレ・フィエラモスカ」(1909)を送り出している。16世紀の有名な挿話の映画化で、馬40頭と200人のエキストラを出演させた大作だった。貴族の率いるイタリア人騎士16人と、フランス人騎士16人が闘い、イタリア側が勝つという内容の作品である。

 ナポリでトロンコーネ兄弟社の後身であるヴェズヴィオ・フィルム発足している。この会社は、ナポリ方言詩の詩人サルヴァトーレ・ディ・ジャコモに脚本を依頼した。

 また7月には、ピネスキ兄弟社がラティウム・フィルムと改名し、人気作家だったヤンボーことエンリコ・ノヴェッリを演出家として招いている。

 全体的に、当時のイタリア映画の水準は高かったと言われている。失敗に終わったパリでの映画会社の会議の後、アンブロジーオらはアメリカへ視察に出かけている。当時、北アメリカではイタリア映画がフランス映画の優位を奪って首位に立ちつつあった。アンブロージオらは、MPPC加盟社の敵意に直面する一方で、イタリア映画の水準の高さについて、確信をいだいたと言われている。

 イタリア映画の高い水準は、アンブロジーオ社のカメラマンだったジョヴァンニ・ヴィトロッティが1909年にモスクワに派遣されていることにも現れている。ヴィトロッティは、ティーマン&ラインハルト社設立に際して、アンブロジオ社が協力依頼を受けたことからロシアへと向かった。ヴィトロッティはロシアで何本かを監督・撮影した。

 一方で、当時のイタリア国内の映画市場は外国映画の占有率の方が高かったと言う説もある。イタリア映画は輸出が盛んで、国内市場を軽視していたためと言われている。

  デンマークでも文芸的な作品が多数製作された。その中では、「革命下の結婚式」(1909)が成功作だったと言われている。一方で、喜劇、トリック映画、探偵シリーズも製作された。これらの映画では、すべての場面はフル・ショットで撮影されており、筋の運びが極端に凝縮されていた。


(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。