イギリスの映画製作者たちと映画法の制定

 映画草創期の劇映画製作において、イギリスの映画製作者たちは活躍を見せたが、この頃になるとかつて活躍したメンバーたちは劇映画製作の第一線から退いている。

 ジェームズ・ウィリアムソンは、エジソン社を中心としたMPPCの影響で、アメリカからの注文がなくなった。この年以降、機械の製造を行うようになり、映画製作はニュース映画へと向かう。ウィリアムソンは、後にイギリスで最初のニュース映画社を創立することになる。

 ロバート・ウィリアム・ポールも1909年末には、機械の販売が主になる。

 ジョージ・アルバート・スミスはアーバン社と組み、「キネマカラー」を開発するなどの活動を見せていたが、1910年以降は、南フランスで映画を製作するようになる。

 セシル・ヘップワースは、週2,3本の作品を製作し、1909年末に「ヴィヴァフォン」というサウンド装置を開発したが、徐々に映画製作は衰えていった。

 国内の映画製作の落ち込みを反映し、イギリス国内におけるイギリス映画の割合は、1909年から1910年にかけて15パーセントに落ち込んだ。

 イギリス映画の衰退はアメリカのMPPCの影響が大きかった。ジェームズ・ウィリアムソンは1912年に次のように語っている。「M・P・P・C(エディスン・トラスト)の機能は、われわれをアメリカ市場から閉め出すことで、イギリス映画に死をもたらした。われわれは資本を見つけることができず、誰一人としてフランスやイタリアで投資される金額の二十分の一すら敢えて危険にさらそうとはしない・・・・」(世界映画全史(6) P131)

 MPPCに対抗して模索されたヨーロッパの映画会社のカルテルも挫折。イギリスの製作者たちは国際映画製作会社を組織し、フィルムの廉価販売を企てるが、アメリカで相手にされずに失敗に終わった。

 一方で興行は活況を呈していた。興行者は何件かの映画館をチェーン化した。イギリスでは、映画館のチェーンをフィルム・サーキットと呼んだ。1908年にはわずか3つしかなかったが、1910年には295へと急増している。1909年創立のプロヴィンシャル・シネマトグラフ・シアターズは、人口25万人以上の都市に1つ以上の映画館を作ったという。また、配給は1フィート当たり6ペンスであり、オープン・マーケットだったが、パテの支社が独占を進めていた。

 1909年にはシネマトグラフ・フィルムズ・アクト(映画法)が制定されている(施行は1910年1月から。映画法は、火事の多かった映画館への対策として、ライセンス制の施行が第一の目的だった。映画法では、日曜日の営業が禁止されている。イギリスでは、英国協会が厳格だったことが大きな要因である。だが、稼ぎ時である日曜日の興行は、収入的にダメージが大きく、後に興行者たちが運動を起こし、日曜日の収益の一部をチャリティに寄付することを条件に興行が行われるようになった。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。