文芸映画シリーズとイタリア映画

 フィルム・ダール社による「ギーズ公の暗殺」によって火のついた文芸映画シリーズの製作ブームだが、フランスでは大きな成果は生み出せずにいた。

 パテ社はこの年、フィルム・ビブリック社を設立してアンリ・アンドレアーニを中心に、文芸映画シリーズを製作しているが、芸術的な配慮は高尚な主題を選び、時代物の衣装を着せただけだった。だが、作品としては成功を収めたと言われ、「カレー籠城大観」(1910)での城砦を攻撃する軍隊は力強さにみなぎっていたと言われる。

 フランスに代わって、文芸映画シリーズの分野で結果を出していたのが、イタリアである。

 アンブロージオ社の「擲弾兵ロラン」(1910)は、ナポレオンのロシア大遠征を1人の人間の目を通して見た大作だった。同時期のフランス映画が舞台装置に閉じこもったままだったのに対し、ピエモンテ・アルプスの雪の中で撮影し、高い効果を上げたという。また、2千名のエキストラが使用されたという。

 アンブロージオ社では他にも、脚本家のアルリーゴ・フルスタとカメラマンのジョヴァンニ・ヴィトロッティがモンブランに上り、高度でのドキュメンタリー撮影に成功している。

 イタラ社の「イリアッド」(1910)は、二巻物で巨大な装置(特に木馬)が売りで、興行的に成功を収めた。

 同じくイタラ社では、「トロイの陥落」(1909)が製作されている。800人のエキストラが起用され、大セットが作られた大作だった。ギリシア史を研究した2人の画家がセットを担当し、衣装はミラノのスカラ座の小道具専門会社に依頼した。監督のジョヴァンニ・パストローネが初めて別名ピエロ・フォスコを使った作品とも言われる。

 「トロイの陥落」は、イタリア初の600メートル連続上映された映画である。当時のイタリア映画の映写機で連続上映の上限は350メートルであり、興行者が上映をしたが、人気の高さから次第にフィルムの争奪戦となるほどの大ヒットした。アメリカではMPPCに意向で当初上映されなかったが、映画ファンの圧力で公開されるようになったという。

 「トロイの陥落」の監督であるジョヴァンニ・パストローネは、かつてネガからポジフィルムを作るときに、精密なパーフォレーションを行えるようにして、ブレないようにした実績があった。イタラ社のロゴマークはFixiteを図案化したもので、ブレないことを売りにしていた。そのパストローネが、長尺用映写機を開発し、600メートルの連続上映の技術的問題を解決したのだった。「トロイの陥落」以後、イタリア映画は長尺時代に突入し、外国からの長尺映画の輸入もされるようになったと言われている。

 ミラノ・フィルムスは、「ジョアキーノ・ムラあるいは宿屋から王位へ」(1910)を製作している。監督は、ジェゼッペ・デ・リグオロ。出演者400人の大作だった。伯爵家の城でロケされ、ミラノ・フィルムスの経営者である2人の男爵など本物の貴族を出演させた。壮麗なセットは社長のルカ・コメリオの趣味とも言われている。

 ちなみにミラノ・フィルムスはこの年、ミラノにヨーロッパ最大のスタジオを建設している。

 チネス社では、後に「クオ・ヴァヂス」(1912)を監督するエンリコ・グアッツォーニが、「アグリッピーナ」「ブルータス」(1910)といった史劇映画に監督として名前を出すようになるが、以前から名前が出ていなかったが史劇を演出していたと言われている。また、元々がセット・デザイナーのグアッツォーニは、2作ともセットと衣装は自分でデザインしたという。

 チネス社で、グアッツォーニが学んだと言われる監督であるマリオ・カゼリーニは、野外決闘、ムーア人との決闘、戦士のパレードなどが売り物の「エル・シド」(1910)や、「ローマの歌姫」(1910)といった作品を監督している。

 そのイタリアでも喜劇映画も積極的に製作されている。この年、アンブロージオ社は、フランスの道化師マルセル・ファーブルと契約し、映画を製作している。政治風刺劇の「クレティネッティ君はフェミニストの候補者」(1910)といった作品も作られている。

 イタリアでは、アンドレ・デードの成功によって、様々な役者が愛称をつけて映画に登場した。1909年から1915年までに数多くの人物が登場しては消えていった。また、同じ人物が違う名前をつけて登場したりもした。

 同じ喜劇役者が名前を変える理由は、宣伝の他に愛称が製作会社に帰属するという会社側の主張があったという。フェルディナンド・ギョームは、1910年からチネス社でトントリーニの名で、クレティネッティに匹敵する人気を得た。1911年にミラノ社に移り、コッチウテッリに改名。1912年から1914年までパスクアーリ社ではポリドールとして活躍した。

 1910年のイタリアの映画産業は活況を呈し、銀行の貸付も以前よりされるようになった。貸付は外国からの生フィルムの購入に当てられたという。

 5月には、トリノの製作者と興行者の映画会議が開催され、初めて商業流通の面からの議論が行われた。映画料金の支払いについての協定が結ばれ、興行者が1館分の料金で2館以上で上映する「自転車システム」(南イタリアで盛んだった)の厳禁も合意に至った。

 また、当時のプログラムは旅行映画、ドラマ、実写もの、喜劇の4本立てで上映時間は45分程度が普通だったとう。

 

(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。