ロシアの映画製作−1910年

 ロシアの映画館では、第一次大戦前まで、フランスのパテ社の作品がスクリーンを占めていた。ロシアでも映画製作は行われていたが、外国の会社によってロシアで製作された映画の方が、ロシアの会社の製作本数より多かった。

 パテ社は、前年よりワシーリ・ゴンチャロフを雇い入れ、カイ・ハンセンと共同で映画を製作させていたが、この年も「ピョートル大帝」(1910)を製作している。また、ハンセンはこの年から文芸映画を製作している。また、モーリス・メートルは1908年〜1910年にかけて文芸作を撮っていたが、「アンナ・カレーニナ」をこの年撮影している。

 パテ社と同じフランスのゴーモン社もこの年、ゴンチャロフを監督として雇い入れ、マカーロフと共同で文芸作品を撮らせている。

 ロシア国内会社が製作したものでは、ドランコフが1908年に撮影したフィルムを、この年トルストイが死去すると、「トルストイ伯の生涯」(1910)として公開した。ちなみに、パテ社はトルストイが最後を迎えた町に撮影隊を送っている。

 また、ドストエフスキー原作「白痴」(1910、ピョートル・チャルドゥイニン監督)も製作されている。

 ロシアでは1910年以来、クロース・アップの使用が流行になり、演技指導も進歩を見せたといわれている。また、ロシア映画は国外では中央ヨーロッパやスカンジナヴィア諸国に売られたが、あまり広がらなかった。これは、第一次大戦の影響が大きいものと思われている。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。