その他の国々(1910)

 イギリスの映画製作は苦戦を強いられていた。

 1910年にイギリスで公開された映画の割合は、パテを中心としたフランス映画36%、アメリカ映画28%、イタリア映画17%、イギリス映画16%だったという。イギリスの映画人口は増えて産業としては栄えていたが、シェアは外国映画が占めるという状況だった。製作会社は、興行価値と関係なく1フィートあたりの賃貸料を得るのみだった。

 当時のイギリス映画が他国に負けていた理由としては次のような点が指摘されている。
 1.映画は見世物という意識が強く、演劇や文学の仲間入りをするのが遅かったため、才能が集まらなかった。
 2.絵画に近いサイレント映画を創造するのはイギリス人には不得手だった。
 3.アメリカの共通の人種と言語を所有していた(サイレント期はなまりも気にならなかった)。
 4.卓越した映画商人が現れにくかった。コルダやランクが登場するのはトーキー以後だった。
 5.海外市場を獲得できなかった。

 また、1910年にアメリカでMPPC系列の配給会社であるゼネラル・フィルム結成以後は、ウィリアム・フォックスを通じて以外にはアメリカ進出できなくなっていた。

 そんなイギリスでは、映画配給者協会が設立されている。

 アイルランドでは、1897年から映画製作が行われ、1910年頃から本格化したと言われている。だが、映画製作は外国人の手によるものだった。カナダの映画会社がアイルランドで撮影するために、トロント生まれの監督兼俳優のシドニー・オルコットを派遣し、オルコットは父祖の地で映画製作を試みた初のアイルランド人となったという。