ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン−1910年

 光学機器の大量生産を得意としていたドイツは、1910年頃に優れた映写機を市場に出し、中央ヨーロッパやロシアではパテの映写機に取って代わっていくことになる。

 そのドイツでは、リュミエール兄弟が開発した機械名である「シネマトグラフ」という言葉は、商標を登録していた会社があったので、使用できなかった。大衆は「キネマトグラフ」を短縮化した「キノ」という言葉を使った。少し軽蔑と親しみを込めた言葉に「キーントップ」という呼び方もあった。「キノ」はロシアに伝わり、ロシア語でも「キノ」と言われるようになった。フランス語への反発から一時期「リヒトシュピール(光の芝居)」と名づけられたが定着しなかったという。

 ドイツ最大の映画製作会社メスター・フィルム社では、1910年頃から、主宰者のオスカー・メスターがフランスのフィルム・ダールに刺激されて芸術的・演劇的な長篇を製作するようになったという。商業ベースの作品は、会社創立から活躍したカール・フレーリッヒがこなしたと言われている。

 ちなみに、フレーリッヒと同じように1900年代から仕事を始めたドイツの監督には、ヘンニー・ポルテンのメロドラマを手がけたルドルフ・ビブラッハ、フランスの連続映画「ニック・カーター」を真似た「黄色の星」を監督したオットー・リッペルト、大スター女優ヘンニー・ポルテンの相手役から監督となり、後にヘンニーと結婚するも、若くして急逝したクルト・シュタルクなどがいる。

 またドイツではこの頃になると、メスター・フィルム社以外の映画製作会社も設立されていた。代表的なところでは、アメリカのバイオグラフ社のドイツ支社が独立してできた「ドイツ・ムトスコープ=ビオグラフ」や、1908年に50万マルクの資本金でパテ傘下として設立された「ドゥスケ」、ルール地方の劇場グループが中心になり、ケルンにスタジオを建設した「ドイツ・キネマトグラフ(DEKAGE)」がある。

 オーストリア=ハンガリー帝国においてはこの頃、幾つかの映画会社が、淫らな映画を専門に作っていた。他には、クンストフィルム社が喜劇を専門とし、サッシャ社が劇作品や喜劇を製作していた。

 スペインでは、12月29日から映画の入場料に5%の税金がかけられるようになっている。この税金は、青少年保護委員会と物乞い撲滅委員会の活動資金になったといわれている。

 また、スペインでは、フランクトゥオッソ・ヘラベルトによるドキュメンタリー「レリダの洪水」(1910)や、フランクトゥオッソ・ヘラベルトがフィルムス・バルセロナ社で撮影した劇映画「姑を手懐けるには」(1910)などが製作されている。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。