日本 新派について

 当時、日活は京都で時代劇、東京で現代劇を1ヶ月に4本製作し、時代劇と現代劇を組み合わせて上映した。

 現代劇は新派と呼ばれ(悲しいセンチメンタルな作品が多かったため新派大悲劇と言われた)、時代劇は旧劇と呼ばれた。

 ここで、新派についての映画評論家の佐藤忠男の文章をちょっと長いが引用する(「講座 日本映画1 日本映画の誕生」より)。新派とは何かについて、非常に勉強になる。

「新派とは、本来は二十世紀初頭に成立した日本の演劇の一流派である。十九世紀末まで、日本では演劇といえばほとんどが歌舞伎だった。歌舞伎は封建時代に封建社会の人間の行動様式を様式化して成立した芝居であり、西洋化することによって風俗も人々の言動も大きく変化した明治以後の日本人の生活を表現することはできなくなってしまっていた。これに対し、西洋演劇の直輸入として新劇が始まり、一九一〇年代になると日本の作家の創作劇も上演して現代日本人の生活をリアルに表現することを目指すようになるが、なにぶん、学者や知識人が西洋文化を日本に導入しようということから始めた文化運動であっただけに、大衆娯楽としての愛嬌や親しみやすさや面白さには乏しく、それが一般大衆に自然に親しまれるようになるには長い年月を要した。こうした状況にあった十九世紀末に、自由民権運動のための政治思想宣伝劇として始まったのが川上音二郎らの壮士芝居、書生芝居であり、彼らは演劇的様式は無視して大胆に現代劇を演じた。あるいはその芸術的水準はアマチュア演劇程度のものだったであろうが、歌舞伎がついに現代劇に脱皮することができず、先祖から伝えられた様式を磨くだけにとどまっていたとき、壮士芝居、書生芝居は、なにはともあれ現代の息吹きを伝える大衆演劇として人々に受けた。これが、思想運動としての自由民権運動が弾圧によって壊滅したあとにも生き残ったとき、主として感傷的な現代大衆演劇となっており、そのときにはもう、歌舞伎的な様式化された型をたっぷりとり入れたものに変っていたのである。それは現代劇であったが、新劇とは明らかに違うものだった。新劇は最初から女優を育成したが、新派は歌舞伎と同じく女形が女を演じた。それだけにオーバーだった。内容的にも、新劇にはつねに、近代的な新思想の探求という目的があったが、新派は大衆的商業演劇として観客の人気を得ることを競い、そのために舞台の上の美男美女に観客のため息をつかせることをもっぱらねらった」



(映画本紹介)
日本映画の誕生 〜講座日本映画 (1)

 日本映画についての歴史や論評をまとめた「講座 日本映画」シリーズの第一巻。成り立ちから、「新派」「旧劇」といった重要用語の詳しい解説、弁士についてなど、日本映画初期を概観するには最適の1冊。