日本 日活向島撮影所の陣容
1915年頃の日活向島撮影所は次のような陣容だった。所長、会計、庶務兼出張会計、出道具係が各1名。考案部(脚本作者)が桝本清と鬼頭磊の2名。監督が小口忠のみ、助手1名。カメラマン2名、カメラ助手5名、普通写真1名、俳優係1名、大道具5名、小道具1名、電話係1名。掃除2名。俳優部22,3名。合計で50名くらいだった。
給料は、尾上松之助の月給が120円、立花貞次郎が80円。下働きはかなり安くこき使われていたという。
平均的な撮影は、本読みに1日、衣装調べに1日、ロケ撮影に3日、セット撮影に2日というもの。ロケの日に雨が降ったら、セットに背景を書いて撮影された。毎月の総経費が1万数千円と決まっていて、一尺(約30センチ)あたり35銭〜60銭くらいで仕上げたという。
当時の平均的な作品は、場面数が17〜22場面で、1場面は1ヶ所にカメラを固定しての全景もしくは遠景であり、クロース・アップはなかった。上映時に数人の弁士が分担してセリフを話すため、役者はきちんとセリフを話す必要があり、監督が撮影しながらセリフを言って、俳優はそれを繰り返した。テストをせずに簡単な打ち合わせのみで撮影を行った。撮影中にフィルムがなくなると、俳優たちに動作の途中でストップさせてフィルムを入れ替え撮影。このときに失敗すると、「のぞき」と呼んだ別ショットを入れてごまかした。溝口健二は後年に至っても、ショットを割るのはワン・ショットでうまくいかない場合のごまかしという考え方が残っていたと言われている。
また、会社側は安い制作費で量産することがよいことと考えていたという。
(映画本紹介)
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日本の映画の歴史を追った大著。日本映画史の一通りの流れを知るにはうってつけ。