ヘイルズ・ツアーズ 「映画」と映画の狭間

 ヘイルズ・ツアーズとは、1900年代の中ごろに一世を風靡した映像を使ったアトラクションである。1905年にカンザス・シティを始め、アメリカ東部主要都市の遊園地に設置され、アメリカ人の国民的関心を呼んだ。スクリーンの列車の動きに合わせて、軋みをあげたり、汽笛を鳴らしたり、人口の風が吹き込んだりといった趣向が凝らされていた。10セントで10分ほど楽しめるこのアトラクションは、1908年までに、全米で少なくとも500館が興行を行っていたという。

 1905年当時の旅行といえば、何よりも列車旅行であり、現在ほど旅行が身近なものではなかった時代に、旅行気分を味わえるアトラクションとして人気を呼んだといえる。アドルフ・ズーカー、サム・ワーナー、カール・レムリといった、後にハリウッドのタイクーンとして君臨する人々の多くは、ヘイルズ・ツアーズの興行で財を蓄えて映画界入りをしている。

 このヘイルズ・ツアーズに似たアトラクションは、現在でもテーマ・パークやアミューズメント・パークに存在している。ヘイルズ・ツアーズは、現在のこうしたアトラクションのさきがけという面も持っている。だが、もう少しヘイルズ・ツアーズが人気を呼んだ時代を見てみたい。

 ヘイルズ・ツアーズが誕生した1905年は、ニッケル・オデオンがピッツバーグに誕生した年とも重なっている。ニッケル・オデオンによって映画と人々の距離は縮まっていくことになる。逆にいうと、ヘイルズ・ツアーズが誕生した1905年は、まだ映画と人々(特に労働者階級の間)には距離があったともいえる。

 ヘイルズ・ツアーズはアトラクションとして、映像を利用したものだといえるだろう。当時の映像はモノクロでサイレントである。いくらなんでも、「まるで実際に旅行をしているかのようだ」といった感覚を抱くのは難しいのではないかと思う。映画が誕生した当時は、写真が動くという単純な事実のみで人々の興味を引くことが出来た。遠い国々の様子も、映像で見ることができるというだけで、人々の興味を引くことが出来た。だが、そういった新奇な興味は、慣れとともにすぐに薄れていってしまう。ヘイルズ・ツアーズは、そんな映像のみでは引くことができなくなった興味を、アトラクションとして複合的に観客に提示することで、ブームを呼ぶことが出来たのではないだろうか。

 ヘイルズ・ツアーズがあくまでもアトラクションとしての体験によって成立していたのに対して、ニッケル・オデオンは「映画を見る」という形式を確立したといえる。カッコづきの「映画」ではなく、一般名詞としての映画を見るという形式を。つまり、ニッケル・オデオンはさまざまなパターンを持つ(西部劇であったり、コメディだったり、ドラマだったり)映画を人々に提供したのだ。ただし、そのニッケル・オデオンのプログラムも観客全員による合唱などで構成されていたことを忘れてはならない。完全に人々が映画を見ることを楽しみするのは、映画自体が話法などに磨きをかけ、スター・システムを確立した後のことだ。

 ヘイルズ・ツアーズは、アトラクションとして映像を利用して人々の興味を引くことに成功したものの、現在の私たちが映画として楽しめるような形式に整備することはできなかった。ヘイルズ・ツアーズの一時的な熱狂は、映像の持つ可能性の多様さとともに、映像をじっと見るという映画が持つ魅力の強さを感じさせる。



(映画本紹介)

映画館と観客の文化史 (中公新書)

映画館と観客の文化史 (中公新書)

 映画がどのようにして観客に受容されてきたかについて書かれた数少ない本。映画は常に映画を見る環境と共に成立し、変化してきたことを教えてくれる。