「映画」を確立した独立系映画会社

 映画草創期の1910年代のアメリカ映画界において、独立系映画会社というと、エジソン社を中心とした映画会社のカルテルだったMPPCに所属していない映画会社のことを指す。

 独立系映画会社の代表的な社名と、それぞれを率いた人物名を挙げてみよう。フォックス社とウィリアム・フォックス、パラマウント社(フェイマス・プレイヤーズ)とアドルフ・ズーカー、ユニヴァーサル社とカール・レムリ・・・・。これらの会社に共通することがある。それは、現在でもその名前を残している映画会社であるということだ。当初、圧倒的な力を持っていたMPPCに対して、「独立系」という弱い立場だった映画会社は、MPPCとの闘いに勝利して、現在でも名を残すような力を持った映画会社へと変貌していく。「独立系」の映画作りは、映画の主流となっていくのだ。

 MPPCと独立系の闘いにおいて独立系が勝利した主要因は、独立系が製作した映画が、MPPCが製作した映画よりも人気が高かったことにある。その違いは、MPPCの映画会社が実業家であったのに対して、独立系の映画会社は興行師であったというと分かりやすいだろう。

 偽の自動車事故のニュースを流してフローレンス・ローレンスをスターにしたのは、ユニヴァーサル社のボスだったカール・レムリだ。MPPC側の映画会社だったバイオグラフ社は、当時主流になりつつあった長篇の映画製作をD・W・グリフィスに認めず、グリフィスは独立系の映画会社へと移籍した。ヨーロッパの非MPPC映画会社の面白い作品を輸入して公開したのは、ウィリアム・フォックスだった。日替わりで上映され、どんな映画をやっているかは、映画館に行ってみないとわからないという状況に、長期ロードショー制度を導入したのはアドルフ・ズーカーだった。


 独立系の映画会社は、現在の映画に通じる部分を多く持ち込んだと言える。

 それまでの映画は、ひと時の楽しみを人々に享受するものに過ぎず、人々は登場するスターたちの名前も知らなければ、作品名でさえ覚えるに値するものではなかった。

 映画を1つの作品として提供する。独立系の映画会社が行ったのはそういうことだ。上映時間を長くし、作品名を認知させ、登場する役者の名前も認知させる。長期ロードショー制度を確立することで、話題を呼んだ作品を目当てで映画を見に行くことができる。気に入った作品(上映中であれば)は繰り返し見ることができる。映画は「映画」という漠然とした存在から、1本1本の作品を指す言葉へと意味を変貌させていく。

 このことにより、映画は幅広い客層の支持を得ることとなった。それまでは労働者階級の見るもの、舞台や小説といった存在よりも下の存在という認識だった映画は、1つの作品として中流階級以上の人にも受け入れられていく。


 独立系の映画会社は、映画を作品として世間に認知させることに成功する。だが同時に、彼らが興行師であることも忘れてはならないだろう。彼らは常に話題を呼ぶことを忘れなかった。それは、時にはスターの宣伝(時には扇情的な)であったり、セックス・アピールであったりもした。一方で、有名な小説や舞台を映画化することによって、作品がいかに「芸術的」であるかをアピールしたりもした。

 映画は、話題の中心として見なければならないものでもあったし、知らないことを知ることができるものでもあった。また、映画を見ることは、時に芸術的な行動であった。独立系の映画会社が世間に認知させた映画は、時代が変わって影響力が小さくなったり、意味合いが多少変わった部分があるにしても、現在でも変わらない部分を多々持っている。


 最後に、独立系の映画会社が映画にもたらした、もう1つの部分を指摘したい。それは最も大きな影響力を持っていたのではないかと思う。それは、映画を、見ている間は「飽きない」存在にしたということだ。

 観客を飽きさせずに楽しませるために、映画はテーマを工夫し、シナリオを工夫し、演出を工夫し、セットを工夫し、音楽を工夫していくことになる。

 約2時間を拘束される映画を見ている間、映画は観客を飽きさせない。観客は2時間の楽しいひとときを過ごした上で、知らなかったことを知ったり、「芸術」を見たという気分を味わったりすることができる。これ以上なくお手軽で、楽しい存在へと、独立系の映画会社は導いていく。

 独立系の映画会社は、現在私たちが見ている映画にも通じる基礎を作り上げた。そしてそれが、興行師たちによるもの、人々を楽しませるのが得意だった人たちによるものだったということは、忘れてはならないだろう。