子供たちに幸せを与えた「ジゴマ」

 「怪盗ジゴマ」とは、1911年に日本で封切られ、その後約1年間に渡り、日本を席巻した犯罪映画(および小説)のことである。凶悪な犯罪者のジゴマとジゴマを追う探偵との対決を描いた作品である。

 ジゴマは人気を呼び、特に当時の少年を熱狂させたといわれている。日本における映画草創期の出来事として、特筆すべき映画として取り上げられることも多い。

 1911年での東京の封切りのあと、主だった都市以外では巡回映画として上映された。すなわち、現在のように日本全体に同時期に封切られて話題を呼んだわけではない。当時は現在ほど、フィルムの配給制度が整っていたわけではなかった。その代わりを果たしたのは、小説だったといわれている。映画の内容をそのまま小説化したノベライズ、ジゴマのキャラクターを使った映画とは別のストーリーのもの、加えてジゴマのイメージを流用して日本人が活躍するものも発行されたという。また、日本の映画会社が、「ジゴマ」の名前を使ったり、似たような内容の作品を別のタイトルとしたりして、ブームに便乗した作品が多く作られている。

 「怪盗ジゴマ」の上映について、地方への広がりなどについては、永嶺重敏の「怪盗ジゴマと活動写真の時代」(新潮社)に詳しい。当時の映画興行の様子も把握できる一冊である。

 ジゴマのブームは、当局が上映禁止の措置を取ったことで終息を迎える。悪が中心に描かれており、子供たちに悪影響を与えることがその最大の理由であったという。また、ジゴマに刺激された犯罪も多発したといわれる。

 実際にジゴマが子供たちに悪影響を与えたのかは、わからない。だが、ジゴマの活躍が子供たちを始めとする人々を魅了したことは間違いのないことだろう。

 ジゴマが人々を魅了したのは、映画だけのためではなく、小説の力もあったことは上述した。「ジゴマ」という言葉は、元々の映画を遊離して、言葉として子供たちを魅了していった。ここに、私は人間の想像力の逞しさと力強さを感じる。

 水野晴郎監督の「シベリア超特急」(1996)が話題になっていたとき、地方にいた私と友人たちは、映画を見ることができず、想像で映画の内容を語り合っていた。それは何時間にも渡り、自分勝手な想像はエスカレートしていった。そして、想像で語り合う私たちは楽しくて仕方がなかった。そのとき私たちは、見てもいないにも関わらず、まぎれもなく「シベリア超特急」に魅了されていた。

 「ジゴマ」に関して、次のような話がある。奉公に出ていた子供たちが休暇をもらえる時期に、「ジゴマ」の観客数が大幅に増えたのだという。

 「ジゴマ」という映画があるということを聞き、自分たちの中で想像を膨らませ、休みのときは必ず「ジゴマ」を見に行こうと心に決めて日々の仕事をこなし、いざ休みになると期待を胸に映画館へと向かい、休暇が終わると再び奉公先へと戻っていく小さな子供たち。

 私たちは、色々なものに魅了される。それは、人だったりするし、物だったりする。言葉だったりするし、映像だったりする。直接的なものだったりするし、間接的だったりする。そして、魅了されるという体験は、何物にも代え難いものである。

 「ジゴマ」に魅了された、奉公に出ていた子供たちのトキメキを想像すると、私は感動すら覚える。奉公に出ていた子供たちに、「ジゴマ」が一時でも幸せを与えたのだとしたら、それは「ジゴマ」の内容がどうとか、悪を助長するとか、そういったことを超えて、この世に存在した価値があったのだ。私は、そう信じる。

怪盗ジゴマと活動写真の時代 (新潮新書)

怪盗ジゴマと活動写真の時代 (新潮新書)